序章

 ――おいしい、って、どういうことなんだろう?

 脳内、あるいはこころのうちに直接響いてくるようなその声は、人間で例えるのなら無邪気な子どものように弾んでいた。クロッシングと似て非なるこの会話にも、その声音にも、どこか「日常」を感じるほど慣れ親しんでしまっている。声の主は人間が「敵」と呼び、おそれているものと同じ存在であるはずなのに、総士は彼をこわいとは思わない。
 彼はフェストゥムだった。かつてひとつの存在であったはずの彼らは、人との戦い、北極ミールの分裂によって、異なる意志を持つ群れを形成し始めていた。そのなかでも彼は特異な存在だった。
 フェストゥムの世界、存在と無の地平線、その手前で、彼らのさまざまな思考や声がたゆたうのを拒んだり見送ったりしながら、たったひとつの細い糸を手繰り寄せていた総士のもとに、ある日その声は流れこんだ。
 ――今日の空はとてもきれい。
 空がきれい。そんな言葉を、この世界に来て一度たりとも聞いたことはなかった。まさか自分以外にも誰か、同じように彼らの世界に触れている人間がいるのだろうか。驚愕しながら意識をつないだその相手は、しかし、紛れもなくフェストゥムの個体だったのだ。彼は総士がいることに気がつくと、それはもう、うれしそうな声で語りかけてきた。
 ――きみも、空がきれいだって思うんだね?!
 戸惑いながら肯定した総士に、彼はひどく喜んだ。それからというもの、彼は総士のそばにいるようになり、総士の存在を庇い、総士の記憶や知識を少しずつ共有しては、人間というものを知ろうとしている。理解できる、と思っている。総士はそれを拒まなかった。フェストゥムの側から人間へ「対話」を望むものが存在することに驚き、そのひとかけらの希望に賭けたいと思ったのだ。
 今日の彼の理解したい感情は「おいしい」というものらしい。総士の記憶に触れているなかで、その感情を見つけてきたのだろうか。総士が思い出せる限り、十数年の生のなかで、こころからおいしいと感じたものは、誰かとともに取った食事であったように思う。
(ああ…、そういえば、合宿で、みんなで食べたカレーはおいしかった。あんなふうに、大人数で料理をすることなど、滅多になかったから)
 それに、そうだ。アルヴィスの食堂で、食べてみたいとせがまれて乙姫と一緒に注文した三色カレー。乙姫がとてもおいしそうに頬を緩ませるものだから、総士も、普段ひとりで食べていたときよりもずっとおいしく感じたことを覚えている。
 そのときの光景を思い浮かべ、肉体はないのに、総士は自分の口元が笑みを形づくるようなくすぐったさを感じる。そして、カレーと言えば、あいつは最近そればかり作っているな、と、最近垣間見た景色を思い浮かべる。細くつないだ糸の先、クロッシングしている一騎が鍋をぐるぐるとかき回している姿だ。そういえば、一騎が作った料理なんてここ数年食べていない。小学生になって、台所に立つようになった一騎が作ってくれたものを何度かご馳走になったことはあるが、もうずっと昔の話だ。
 食べてみたい、と思った。
 帰りたいと。
 会いたい、と。
 ――総士、かなしいの?
 戸惑うような声が聞こえた。そうじゃない、と、総士は否定する。かなしいわけではない。うれしいから、さみしくなったんだ。
 おいしいという感覚は、誰かと過ごした記憶につながる。それはあたたかくて、うれしくて、肉体があることのよろこびを感じられる感覚だ。お前もいつか知るだろうか。感じてくれる日が、くるだろうか。
 叶うならば、憎しみや悲しみ以上に、穏やかでうつくしい人間の感情を、たくさん知ってくれればいいと思う。それがいつか、人とフェストゥムとのあいだの、希望になってくれるように。
 ――食べる、かぁ。食べてみたいなぁ、俺も。
 未知の感覚に対する無邪気な好奇心があふれ、きらきらひかる。きんいろのひかり。彼らのその色を総士はずいぶんと久しぶりに、ああ、きれいだ、と、そう思った。

「空がきれいって、思ったことがある?」

 彼が人の姿を得て島へ降り立つのは、それからしばらく、後のことであった。