第一章
よく眠っていた、ような気がした。
ぼんやりと瞼を押し上げ、瞬きを繰り返す。瞼の筋肉の動き、薄くぼやけた寝起き特有の視界、開きかけた口の渇き、全身に感じられる重力。少し身じろぐと長い髪が頬に触れる。それらすべてが、久しく感じていなかった肉体の感覚だった。ゆっくりと顔を動かし、あたりを見回していると、薄暗かった視界がぱっと明るくなった。眩しさに思わず一度目を瞑り、手を翳す。すると、聞き覚えのある柔らかな声が響いた。
「おはよう、総士くん」
その声に頭が冴える。ゆっくりと身を起こすと、声の主は部屋の外、壁にはめ込まれた窓ガラスを隔てた向こう側に佇んでいる。口には優しい笑みがあり、総士は何度か目を瞬かせた後、「おはようございます、遠見先生」と、ずいぶんと久しぶりとなる朝のあいさつを返した。
千鶴は笑顔でそれに返してから、躊躇いなく部屋の中に入って来た。彼女を前にして初めて、自分が何の身支度もしていない寝起きであることが気恥ずかしくなったものの、身支度をする前に彼女がこの部屋に入る理由があることに思い至る。
「腕を出してもらっていい?」
彼女の言葉にこくりと頷いて、腕を差し出す。手首と指につけられていたのは総士のバイタルチェックをするための装置だった。千鶴は慣れた手つきでそれらを外す。
「…あの、遠見先生」
「なあに?」
首を傾げるその仕草は二年前と寸分違わない。総士は若干躊躇いながらも、言葉を続ける。
「…僕に近づいても、大丈夫ですか」
千鶴はきょとんと眼を瞬かせた後、総士の言葉の意味に気づいたのだろう。ふと柔らかな苦笑を浮かべて、今しがた装置を外したばかりの総士の手をひとつ叩いた。
「こんな風にデータをとって検査をして、これから暫くあなたに不自由な思いをさせる立場で言うべきことではないけれど、私はあなたが総士くん以外の何かであるとは思っていないわ」
「ですが、」
「不安なのはわかるわ。でもソロモンはあなたに反応していないし、昨夜ずっと観察していたデータでも、あなたが明確にフェストゥムであるということは示されなかった。ましてや、あなたが同化欲求を起こすこともなかった」
この回答ではあなたは安心できないでしょうけれど。
千鶴の言葉に、総士はぎゅっと唇を引き結んだ。
――総士が島へ帰還したのは、昨日のことだった。
操の駆るマークニヒトが一騎の駆るマークザインと戦闘を繰り広げたのち、操はボレアリオス内部のミールに群れの攻撃を止めさせた。直後に人類軍の戦闘機から放たれた核を受け止めた操と、入れ替わるように肉体を再生された総士は、マークニヒトと共に、竜宮島に降り立ったのだ。
一騎と再会を果たし、二年ぶりに互いの温もりに安堵したのも束の間、同化現象で限界だったのだろう一騎は、そのまま総士の腕の中に倒れ込んで動かなくなった。慌てて迎えに来た仲間たちと、大人たちに一騎を預け、総士は自身がすでにただの人間ではないことから、島の脅威になりかねないと、拘束及び精密な検査を自ら求めた。
検査はともかく、拘束については、大人たちの間でも意見が割れた。帰って来た総士に対して拘束とはあまりにも惨いではないか、という者もいれば、総士のためにも一時的な隔離は必要ではないか、という者もいたようだ。結局は後者の意見が通ったものの、最低限の自由は保障された隔離措置となった。
部屋は、同化現象が進んだ者や、いわゆる感染症を発症した者などを隔離するのに用いられるもので、様子がわかるようにと強化ガラスがはめ込んではあるものの、部屋の内部に監視カメラはない。部屋を出たところに監視カメラと、特殊部隊が一名配置されているだけだ。もちろん、勝手に部屋の外に出ることはできないし、検査の結果や日々の行動について、いくらかは島の住民に対して公開されることにはなっている。しかし、フェストゥムの側から帰って来て、ただの人のからだでもなくなった総士に対してこれは甘すぎるのではないだろうか、と、総士自身は苦言を呈した。それを、困ったように笑っていなしたのは史彦だ。
「君が例えフェストゥムだとしても、我々は彼らとただ敵対するのではなく、対話する道を選んだ。人のからだではない、という点だけで、必要以上に危険視することはない。来主操にも監視をつけていたし、一騎を共にいさせたが、拘束まではしていないし、彼は比較的自由にしていたぞ」
「しかし、僕は…、僕は、まだ自分が何者なのかわかりません。来主操のように、明確に、人の形をしたフェストゥムだと言い切ることもできません。ですがもう、ただの人でもない。僕が、いつ、どう変わって、何をするか、司令は不安に思われないのですか?」
「――それが、君の不安なのだろう?」
私のではなく、君の。
史彦が真っ直ぐに総士を見て言い、総士は言葉に詰まった。その通りだった。
無論、島民のいくらかは、人かフェストゥムかもわからない総士の存在を不安視するだろう。だが少なくとも、迎えてくれたアルヴィス内の見知った大人たちも仲間たちも、すでに総士を以前と変わらない存在として受け入れてくれている。それがわかっているからこそ、総士は自分自身に不安を抱いているのだ。変わらない優しい人たち、守りたいと願っていた笑顔。それをもし、自分が傷つけることになるのだとしたら――。
ずっと帰りたいと思っていた場所だった。肉体を失い、不安定な自己をなんとか保ちながら耐えていられたのは、帰りたいという、ただその想いがあったからだ。だからこそ、自分自身がこの島に危害を加えるようなことがあれば、耐えられない。
史彦は少しだけ口元を緩め、眉をハの字に下げる。そうすると、どこか彼の息子によく似た面差しになる。
「君の不安はわかる。だからこそ、我々は君を一時的に隔離し、検査することにした。だが、それで答えが出るかは未知数だと、君もわかっているだろう」
「…はい」
フェストゥムの側に行き、帰って来たものなど今までいない。島の技術をもってしても、総士の存在を解明しきることは不可能なのではないか、というのは誰もが予測していることだった。総士自身も、それはわかっている。
「島の人間が君を総士くんだと認め、受け入れるために、君について調べる過程が必要だとは思う。だがおそらく、最後に決めるのは君自身ではないかね」
「僕自身…?」
「少なくとも私は、君が皆城総士以外の何かだと思ってはいない」
そう言った史彦は、「君の気が済むように手助けはしよう」と小さく笑んだのだ。
「総士くん、おなかは空いていない?」
過日のやり取りを思い出していた総士は、千鶴の言葉に顔を上げ、そういえば、と、思い起こす。昨日、いくらかの検査をして、ひとまず体内の構造は人と変わりないことがわかったものの、臓器の機能が正常なのか調べるまで時間がなかったのだ。ましてや二年も肉体を失っていたせいで感覚が鈍っているのか、食事のことなど気にしてもいなかった。
「まだ、からだのことはよくわからないけれど、もし何か食べたいものがあれば、試してみるのも良いかと思って」
からだの機能をすべて調べてから、ではなく、敢えて食事をしたいかどうか、という点に重きを置いているらしい千鶴に、総士は少しだけ唇を噛んだ。この人も、さきほどの言葉の通り、あくまでも総士を今までと変わらない総士として接してくれているのだ。
食事を取るという行為は、人間らしい行為のひとつだと思う。眠る、ということもそうだ。ひとまず昨夜はぐっすり眠れたことを考えれば、総士のからだはフェストゥムに再生されたとは言え、人間の感覚を失っていないものなのだろう。ならば腹も空くのだろうか。
(…食べたい、もの)
そういえば、おいしいってどういうことなのか、と、操に訊かれたことがあった。あのときに総士が思い浮かべたのは、誰かと共にした食事の風景と――クロッシングで見ていた、一騎の作った料理だった。
しかし、それを口に出すのは躊躇われた。一騎は現在、アルヴィス内の別の病室で眠っている。数日で目を覚ますだろうとは言われているが、再度マークザインに乗ったことによる同化現象が彼に与えた負担は大きい。けれどもし、一騎が目覚め、総士に何かを作ってくれたなら――そう、ふと考え、操が島に訪れおいしそうに食べていた一騎のカレーを思い浮かべてしまったとき、久しく感じていなかった空腹感というものが沸き上がる。あ、と、身構えたときには遅かった。ぐう、と、なんとも間の抜けた音が腹から響く。
「……っ」
嘘だ、まさかこんなときに気の抜けた…!と、総士が羞恥で真っ赤になった顔を伏せながら腹を押さえるようにすると、「っ、ふふ…」と、耐えきれなかったというような笑い声が上から降ってくる。
「と…、遠見先生…」
「いえ、その…ごめんなさい…、ふふ…、よかったわ、お腹空いているのね」
昨日も何も食べていないものね、と、千鶴は少しだけ顔を上げた先で柔らかく目を細めている。
「何か食べたいと思ったのね?」
問うてくる千鶴に何と答えるべきか迷う。羞恥が邪魔をするものの、あくまでも現在、総士は検査の対象者だ。問われたことには正確に答えねば、という、生真面目すぎる性格が口を開かせる。
「か…、一騎の、作ったものを…、いえ、その、クロッシングで見ていたのでそのせいかと思いますが」
後半が言い訳じみてしまったのは良くなかった。淡々と事実のみ答えればよかったのだ。そう思いながらちらりと千鶴を見れば、彼女はゆったり微笑んでいた。
「そう、そうね。今すぐには食べさせてあげられないけれど、きっと一騎くんなら、喜んで作ってくれるわ」
ずっと待っていたんだもの、と、そう小さく付け加えられて、総士の中で小さく、しくりと何かが疼く。今日はひとまず食堂のメニューにしましょうか、と言う千鶴の言葉に、総士は否やもなく頷いた。