第二章
夢を、見ていた。
ぼんやりとした意識、霞んだ視界。色のない滲んだ世界は、ここ一年ですっかり見慣れてしまったものだった。目を開けても閉じても大して変わらない、一騎の目はもう色鮮やかな世界を映さない。
夢の中でもそれは同じだった。映し出されているのは一騎の記憶の中にあるシーンだ。総士にどことなく雰囲気は似ているのに、無邪気な顔も声も総士とは似ても似つかない存在が、視線の先にいた。
「一騎カレーって何?」
モニターの向こう側でそう口にしたフェストゥム――来主操に、一騎はぽかん、と、口を開けていた。そばにいた溝口たちが一騎に視線を向ける。なぜ、フェストゥムである彼から、喫茶楽園のランチメニューであるそれの名前が出てくるのか。一騎が目を瞬かせていると、モニターの向こうで父であり司令である史彦が「…食べ、たいのか…?」と困惑しながら訊いている。この映像は全島民に公開されているから、史彦も冷静に言葉を選びつつ対話をしているのだろうが、予想もしていなかった質問に、捻った回答は出てこなかったようだ。
「一騎カレーって、食べ物なんだよね?ねぇ、食べてみたい!」
「そ…れは、まぁ…構わないが…」
史彦がモニター越しに「いいな?」と言いたげな視線を一騎に寄越した。楽園は戦時下で閉店しているが、アルヴィスの食堂に行けば余っている食材はあるだろう。慣れているメニューだから、一から作ってもそう時間はかからない。
しかし、なぜ、フェストゥムである彼がそれを食べたいというのか。
「お前は、食事ができる…いや、したい、と、思うのか…?」
「食べる必要はないけど、きみたちは食べることで、おいしいって思うんでしょ?おいしいって気持ちは、痛みや苦しみとは正反対のものだ。うれしいことや、たのしいことと同じでしょ?」
「…それでなぜ、一騎カレーなんだ?」
「総士がずっと気にしてたんだ!」
操の言葉に、がつん、と、何かで殴られたような衝撃が一騎を襲った。来主操がどういう風に総士と対話していたのかはわからない。だが、一騎カレーの存在を総士から知ったというのなら、千鶴が教えてくれたように、一騎は無意識の間に、総士と確かにクロッシングしていたということだ。あれは、総士と別れてから出来た料理なのだから。しかも、気にしていた、なんて。
(本当に、総士は、いるんだ)
あいまいに感じていた総士の存在が――輪郭が、一騎の中で形を持つ。思わず唇が震えて、ぎゅっと拳を握った。
「…わかった。カレーは持って来させよう。暫くお前にはこの部屋の中にいてもらうことになるが、いいな?」
「うん、わかった」
意外にもあっさりと操が頷き、録画は続けられるものの、中継はそこで切られた。
「…と、いうわけだ。食堂を借りてこい。連絡はしておく。ひとりで行けるか?」
「大丈夫です」
溝口に言われて一騎は頷き、足早に廊下へ出る。アルヴィス内の配置は、慣れた場所ならば頭に入っていた。目がほとんど見えていなくても、食堂くらいには行ける。楽園とは器具や調味料の配置が当然違うので、手間取りつつ、食堂の調理師の手も借りてカレーを作った。部屋に戻ると、史彦に「お前が持って行け」と言われ、一騎は思わず首を傾げる。
「俺でいいのか?」
「構わん」
史彦にどんな意図があるのかわからなかったが、一騎は言われた通りに扉をくぐる。
「あっ、一騎!」
ぱぁ、と顔を輝かせた操に面食らいつつ、一騎はテーブルの上に持ってきたトレーを置いた。操は興味深そうにその上に載っているカレーを見つめて、丸い瞳で一騎を見上げてくる。
「これが一騎カレー?!」
「あ、ああ…」
「いただきます!」
操は特に躊躇う様子もなくスプーンを手に取る。フェストゥムなのに食事の挨拶まで知っているのか、となんとなく感心しているうちに、彼はひと匙すくったカレーを口に入れて、きらきらと目を輝かせ、とろけそうな笑みを浮かべて目を閉じる――一騎には、ぼんやりとしかその様子は見えないのだが。
「おいしい!」
「そ、そうか…」
「おいしい、って、やっぱりうれしいことなんだね」
はっきりその顔が見えなくても、声音から彼がこころから食事を喜んでいることがわかる。フェストゥムなのに、と、一騎はそう思った。灯台で彼を見つけたときからそうだ。
同化された一騎の母や甲洋のように、人間の持つ概念や感情を理解しているフェストゥムが存在しているのはすでに把握している。しかし彼らはあまりに一騎にとって近しい存在であったがために、一騎の中では人と変わらないものとして認識している部分が大きい。
全く初めて出会う存在である操は、ソロモンによればスフィンクス型だという。初めて一騎が戦い、それから何度も敵対してきたフェストゥムだ。それが、人の形を模倣し、人のように涙を流し、犬をこわがり、和平や共闘を語り、おいしそうにカレーを食べている。
それに。
「…お前、なんで、俺の名前を呼ぶんだ?」
ぽつりと零れた疑問は、灯台で彼が名を呼んだ瞬間から抱いていたものだった。しかし、史彦と操の会話を聞いた今となっては、意味合いが少し違う。操が語ったとおりに、操と総士が何らかの対話を行い、操が総士の意図でここにいるのならば、カレーと同じように、一騎の名を知っていることには何の疑問もない。違和感があるのは、一騎の名だけを、やたらとうれしそうに呼ぶことだった。ここまで彼が来るときに接触した人間はみな、総士と関わりがあるものだ。彼らの名も把握しているはずだろう。それなのに操は、一騎の名だけ呼び、目を輝かせる。
操はもぐもぐとカレーを咀嚼したのち、「何か変?」と首を傾げた。
「総士はずっと一騎を呼んでたよ。だから俺も一騎を呼んでるんだ」
その言葉はあまりにも無邪気な声で、何がおかしいのかと言わんばかりに紡がれる。一騎は目を瞠り、一歩足を引いた。総士が確かにいる。さきほども得たその実感とともに、総士が一騎を、一騎の知らぬところで、呼んでくれていたという事実にからだが震える。それは一騎も同じだったからだ。必ず帰ってくると信じながらも、彼の姿のない世界に不安を感じる度にその名を呼んだ。
総士。早く、会いたい、総士。総士――。
クロッシングをしていたのだと聞かされてからは、総士の気配や意図が自分の中、どこかに存在しているように感じられるようになった。けれどそれまでは、一騎の中には思い出の中の総士しかいなかった。
総士は違う。何らかの意図をもって一騎とクロッシングを維持し、一騎の意識や、見ているものを、ある程度は共有していたはずだ。しかし、その代わりに、一騎に総士とクロッシングしているという意識がないために、総士とて一騎と本当の意味で触れたり、話したりすることはなく、一方的なもので終わっていた。そんな総士が――ずっと細い糸でつながるように一騎のそばにいた総士が、一騎の名を呼んでいたというのだ。ずっと。聞こえはしないのに。
お前はどんな思いだった?俺と同じ思いだったんだろうか。
ここにいる、いつか再び出会うまで、と、そう言った彼の声が耳の奥に鳴り響く。
「一騎?どうして泣きそうなの?」
きょとんとした目に見つめられていることに気づき、一騎ははっとした。どうして、なんて、お前たちはこころが読めるんじゃないのかと思ったが、一騎にも言葉にはしようがない、一言では表しきれない感情の奔流など、操にも理解しようはないのだろう。彼らはこころを読むことができても、それを正しく理解し、まして共感することができるわけではない。
「べつに、そんなことはない」
嘘だというのはばれるだろうが、ここがモニターされていることを考えれば言い訳せずにはいられなかった。ふうん、と、呟いた操はぱくぱくとカレーを口に運び続け、ごちそうさまでした、と、人のするように手を合わせた。
*
それからというもの、史彦の指示で一騎は操と常に共にいるようになった。操と話せば話すほど、一騎は彼がフェストゥムであるということを忘れそうになった。
操はいろんな場所へ行きたがった。彼の行動範囲にはある程度の制限があり、アルヴィス内から出ることはできなかったが、それ以外は、一騎さえ伴っていれば――特殊部隊も数名ついているが――比較的に自由だった。
総士の部屋をひととおり見た操は、今度は食堂へ行きたいと言い出した。確かにそろそろ昼どきであったし、戦時下とはいえアルヴィスの食堂ならば開いている。操を伴って現れた一騎に、まばらにいた職員たちはぎょっとした顔をしていたが、逃げ出すこともなく遠巻きに様子を見ていた。
「あ、三色カレーって、総士がよく食べてたんでしょ?俺、これがいい」
総士の制服を着て、総士のいた場所を見たいと言い、総士の食べたものを食べたがる。総士を守ってくれたことには感謝するが、どうにも釈然としない思いを抱きつつ、一騎は食券を買ってやった。ほとんど見えない目でメニューをいちいち確かめるのが面倒で、一騎も同じものを買う。そういえばいつだったか、総士と乙姫がふたりで三色カレーを食べていたことがあった。操とともにカレーを受け取って席につきながら、ぼんやりと思い出す。
「…お前、総士の記憶を共有しているのか?」
ふと疑問に思って訊くと、操は「うーん」と考えるような顔をした。
「全部を共有しているわけじゃないよ。でも、総士はときどき俺に、島のきれいな青空や、海や、彼の目にしてきたものを見せてくれた。俺は総士の知識や記憶を少しずつもらってこの姿になったから、もっと総士のことを知りたいし、総士がいつも呼びかけていた君のことも知りたい」
「知って、それでも、お前はこの島を消してしまう気なのか」
「消したくないよ。消したくないから、俺の言うことを聞いて一緒に戦ってほしいんだ」
どうしてだろう、と、一騎はカレーを口に入れながら考える。食べ物をおいしいと咀嚼して、うれしいという気持ちを表情に出し、一騎たちを失いたくはないと言うくせに、操は言い分を変えない。同じものを食べているのに、一騎の言葉は届かない。ほとんど人間みたいなものなのに、一騎のこころは伝わらない。
いや、たとえ人間同士だって、こころが通じ合わないことなんていくらでもある。あのころの一騎と総士みたいだ、と思った。互いに苦しんでいたのに、守りたいという思いは同じだったのに、言葉はすれ違い、勘違いをして、相手の真意に気づくことができなかったころの。わかってほしい。そう、互いに思っていたはずだった。自分のきもちをわかってほしくて、理解してほしくて、受け入れてほしかった。一騎と操も同じだ。
――ああ、そうか。
伝えたい、わかってほしい。ただ一方的にそう思うだけではだめなのだ。
当たり前のことだった。当たり前だけれど、いつも見落としてしまうことだ。
操が本当に求めていることは、なんだろう。総士が、彼に望んでいたことは、一騎に託したかったことは、なんだろう。
操の感情。人を知りたいという好奇心、空がきれいだと思うこころ、おいしいと食事をたのしむ姿。彼は人を嫌ってなんかいない。攻撃したいとも思っていない。ならば、それを、彼がミールに伝えてくれることをこそ、総士は願っていたのではないか?
人と争わず、対話し、感情を共有しあう。その操の存在に希望を見出していたのではないか?
一騎は懸命に考え、そして、操を理解しようとした。その胸のうちにあるものを、答えを、見つけようとした。
操は自分自身を「指みたいなものだよ」と言いながら、それでも「俺」という個を無意識に確立していた。空がきれいだと思うのも、一騎たちを失いたくないと思うのも「来主操」であるのに、ミールには、神には、逆らえないと葛藤する。その姿は限りなく人間に近かった。
人間なのか、フェストゥムなのか。
その区別が――区別する必要性が、一騎の中でだんだんと希薄になっていく。そもそも、フェストゥムを排除しようとしていたのは何故だった?――敵だからだ。人類を消し去ろうとするもの、おそろしい存在、自分から母や、仲間や、総士を奪ったもの。今なお、島を、コアを、総士の帰るだいじな場所を破壊しようとするもの。
しかし、紅音を名乗ったフェストゥムや、スレイブ型となった甲洋のことを、一騎は敵だとは思わなかった。思えるわけもなかった。彼らはフェストゥムでありながら、一騎たちを助けてくれた存在だ。
人間かフェストゥムなのかという区別は、敵か味方かという区別ともう同一にはできなくなっていた。見極めなければならないのは、相手が、対話することのできる存在なのか否かであった。
戦わなければ、わかり合えないのだろうか。排除することでしか平和は保たれないのだろうか。目の前にいるこいつは、言葉を持っていて、感情があって、一騎を傷つけることもなく、迷いながら対話を続けているのに?
「お前は、何を選ぶんだ?」
とん、と、一騎が彼の胸に触れた瞬間、操はびくりと肩を揺らした。迷子のこどものような顔が、ほとんど見えなくなった目にもかろうじて映る。
お前はいったい、何をおそれているんだろう。
痛いことは嫌だと言った。だから痛みを消したいのだと。操がおそれているのは痛みや苦しみだ。それを消すことができず、与えることしかできない、己の存在そのものだ。
自分で選ぶことができないのは、選んだ先にあるものがわからず、おそれているからだ。選ばなければ苦しむことも傷つくこともないからだ。一騎の言う通りにすれば「俺じゃなくなる」と言いながら、操が本当におそれているのは、「俺」という存在を自覚し、認め、「俺」になることだ。来主操という個としてここにいるのを選ぶことをこそ、彼はおそれている。
――ああ、お前は、俺だったのか。
憎しみや怒りがわからないと無垢な顔で言った操が、それを知り、ミールの意志のままに駆るマークニヒトに、マークザインごと飲みこまれるときになって、一騎は気づいた。
ここにいるのに、どこにもいない。
ここにいたいくせに、どこにもいたくない。
相反するその感情を、一騎は操の中に見る。かつての一騎が――否、今なお、一騎がどこかで抱え続けているその想いを、操の中にも感じる。
――傷つけたくなんて、なかった。
操の声がする。それは一騎もおなじだった。
右手に残った感触。引き裂いた白い肌から噴き出した赤い鮮血。痛いと泣き叫ぶ声。容赦のない太陽の日差し。蝉の声。風の音。とおいとおい、おさない記憶。
総士がその痛みを、傷を、憎むことなどなく感謝し、受け入れ、慈しみ、己の一部としてくれているのを知っている。けれど、一騎は総士を傷つけたいわけではなかった。その悔いは決して消えることはない。
――こわくは、ないの?
ぽつんと聞こえたのは、操の声だった。何も見えない、何も聞こえない世界。深い安らぎとぬくもり。海の中のような、空へ放り出されているような、不思議な感覚。ゆらゆらと心地よい揺らぎ。ふかく沈みこめば、そのままいなくなれると、思った。けれどその瞬間、強く感じたのは、ここにいてはいけない、ということだった。
何がこわいんだ、と、一騎は問うた。また傷つけてしまうとは思わないの、こわくないの、と、操は言う。
こわいよ。
こわいけど、それは当たり前なんだ。
どんな形であれ、どんな方法であれ、また一騎が総士を傷つけないという保障はどこにもない。肉体に傷をつけることもあれば、こころに傷をつけることだってあるかもしれない。痛みや苦しみを与え、与えられる。それはとてもこわいことだ。けれど、それは、生きているからなのだ。自分と相手。まったく違うこころと、からだ。相反する存在として生きているからこそ、傷つけあうこともあれば、慈しみあうこともできる。総士が、乙姫が、身を以ってフェストゥムに教えようとしたことだ。だから一騎は痛みも苦しみも捨てはしない。傷つけることが、こわくても。
――こわいからって逃げたって、その先にお前が望むものはない。
だから俺は諦めないんだ。総士の帰る場所を守ること、そこで総士と共に生きていきたいという、その願いを。
もう一度、お前と話がしたいんだ、来主。
彼の返事は聞こえなかった。そのかわり、何も映さないはずの一騎の視界の向こうに、青い青い空と、一騎の作ったものを食べ、おいしいと笑ったあの顔でこちらを見る、操が見えた。
*
「…、し…」
掠れた声が、ひゅう、と、喉の奥から零れた。
乾いた喉が痛む。その微かな痛みで、覚醒は促された。ピピ、と、小さな電子音が響く。それが何かを認識するより早く、ばたばたと忙しない足音と扉の開く音がした。
「一騎、くん?」
すぐそばで聞こえたのは耳馴染みのある声――千鶴の声だ。それに促されるようにゆっくり、ゆっくりと瞬きを繰り返しながら目を開ける。
「あ……」
「良かった、意識が戻ったのね」
ぼんやりとした視界に映るその姿を、一騎はまだ夢うつつの心地で眺めた。自分の父とそう変わらない年齢のはずなのに、どこか幼くも見えるやわらかな顔。娘の真矢とは違うふわふわとした髪。背後に見えるのはメディカルルームの無機質な白い天井と壁――、白?どうして自分の瞳は、白を白だと認識しているのか?
そう自覚した瞬間だった。ぶわりとからだじゅうの細胞が活動をはじめ、熱を発し、ふつふつと腹の奥底から何かが湧き上がって来るような感覚とともに、一気に記憶と現実が結びつく。
「っそ…、ぅ、し…っ!」
ぎし、とベッドが軋み、同時に一騎のからだも軋んだ。無意識に起こしたからだに走った痛みと虚脱感に、シーツの上に叩き付けられそうになった一騎の背をささえたのは、力強い腕だった。明らかに千鶴のものではない感触に、一騎は暫し痛みを耐えた後、ゆるゆると顔を上げる。
「真壁司令…、どうして」
「たまたま様子を見に寄ったら、扉が開いていたので」
一騎の瞳に映ったのは、ぼんやりと見ていた頃とも変わらぬ父の姿だった。思わず呆けて見つめていると、史彦は「起き抜けに無理をするな」と呟いてから、一騎のからだをそのままベッドに横たえる。
何かを堪えるように一瞬だけ瞳を揺らした史彦は、少しだけ、口元を緩める。
「…見えて、いるんだな?」
「………」
父の問いに答えようとしたが声がうまく出ず、一騎はゆっくりと頷いた。そうだ、見えている。ぼんやりとした姿がモノクロの世界に揺らぐだけだったはずの視界に、物や人の線も形も色も光も、すべてが昔のまま、映っている。そうだ、操がそうしてくれたのだ。勝手なことしてごめんね、と、彼は最期に――総士を介して伝えてくれて。
「と……、さ…」
「何だ?」
「そ…、し…、」
掠れた声ははっきりと言葉を紡げない。喉にひっかかったようなそれを、しかし史彦は正しく読み取ってくれたらしい。
「総士くんは、別の部屋にいる。心配しなくてもいい」
「……っう」
いる。
いるんだ、ほんとうに。
青い空と海のあいだ、今まで見たことがないくらい柔らかく微笑んで、朝焼けの瞳を揺らしていた幼馴染の顔がよみがえる。あれは夢じゃない。コクピットから引き起こしてくれたあの手も、寄り添ったぬくもりも、夢じゃない。
会いたい。確かめたい。総士。総士、総士、総士――。
逸るこころとは裏腹に、からだはまったく動かない。もどかしさに胸が詰まる。クリアになったはずの視界がゆがむ。ひくひくと喉を震わせ、掻きむしるように布団に爪を立てた一騎を宥めるように、大きなてのひらが一騎の目元を撫でた。知らず、ぼろぼろと流れていた涙を拭うようにしたその手は、あやすように額に触れる。
「大丈夫だ。すぐ会える。今は、もう少し休んでおけ」
すぐっていつなんだ。早く会いたいんだ。そう言いたいけれど、与えられるぬくもりは、どうしたって抗えない心地よさで一騎を再びの眠りへいざなっていく。武骨なはずのてのひらが、こんなに優しく触れるのは、そう感じるのは、いったいいつぶりだろうか。そう考えているうちに、一騎の思考は波にさらわれるように遠のいていった。
史彦の言った「すぐ」が訪れたのは数日後だった。
マークザインを通してマークニヒトを封じていたこと、そのために総士と恒常的なクロッシングを行っていたこと、加えて、再度マークザインに乗ったことは一騎のからだを確実に蝕んでいた。かつて北極から帰還したときのような重症化はしていなくとも、数週間程度は様子見のためにアルヴィス内での療養を言いつけられた。ベッドの上で思うように動けない数日を過ごしたのち、やっと自力で起き上がり、なんとか歩けるようになったところで、一騎は史彦から一枚のカードキーを手渡された。
「これ…?」
「総士くんのいる部屋の鍵だ」
総士に会いたいと言い続けていた一騎のために、手渡されたのだ、ということはわかる。しかし、鍵とはどういうことなのだろう。もちろんアルヴィス内の部屋であれば基本的に認証キーは必要になってくるし、総士の暮らす部屋にも鍵がかかっている。だがそれは内側から開ければすむ話で、外から開けるための鍵を手渡される意味がわからない。
訝しく自分を見つめる一騎の視線の意味を正しくくみ取った史彦が、ふと、ひとつ息を吐いた。
「総士くんには、簡易だが隔離措置が取られている。部屋は内側からは開けられない。その鍵も、あくまで総士くんのいる部屋の手前までしか入れない」
「…っ、な…、え…?」
史彦の言葉がうまく飲みこめない。カクリソチ、ってなんだ。かくり――隔離だ。隔てる、離される。良い意味じゃない。それは危ないものを、何かを守るために、それらから離し、とじこめてしまう、という意味だ。総士が隔離されている?総士が、危ないものだと、思われている?
「何で…っ!」
ふつふつと込み上げてきたものが抑えきれず思わず立ち上がった一騎は、そのままからだを支えきれず、前のめりに倒れる。それを受け止めた史彦は「落ち着いて聞け」と言いながら、一騎のからだをベッドに腰かけさせた。万全の状態であったなら史彦を振りほどいて部屋から飛び出していただろうが、今の一騎にそんな体力はない。憤りを腹で煮えたぎらせたまま、一騎は父の腕をつかんだ手に力を込める。見上げた先の灰色の瞳はどこまでも静かだ。それが余計に一騎を苛立たせる。
「何でだ…、何で、総士が、そんな…!」
「彼のからだは、フェストゥムの側で作り直されたものだ。純粋な人のからだではない。検査の結果、ほとんどの身体データはかつての皆城総士と一致した。記憶や言動にも齟齬はない。だがフェストゥムと融合したからだであること、彼らと同じ能力を有していることも判明した」
「だから危険だって言うのか?!」
「今の島の技術では、彼を人だともフェストゥムだとも断言できない。危険だとも、危険ではない、とも」
「総士が…、総士がこの島に、危害を加えるなんてあるわけないだろ!」
誰もが知っているはずだった。皆城の名前を背負い、自分のためでも他の誰のためでもなく、島とコアのためだけに生きるのだと言われた彼が、それを自らの意志で選び、生きていたことを。フェストゥムに捕らえられながらも抗い、北極で人類の戦いに大きく貢献したことも、新たな戦いの火から島を守るため、実体のない身でありながら操を送り込み、新たな対話の道を開いたことも。
彼はいつだって島のことしか考えていない。自分のいのちより、島を守ることしか、考えていないのだ。それなのに。それなのに、そんな総士が島に拒否される?疑われている?――そんなのは、耐えられなかった。
総士は、総士はこの島に、ずっと、帰りたいと願っていたのだ。
今はわかる。
クロッシングしていた意識がなくとも、一騎の内には総士の想いが、声が、残っている。確かに感じる。帰りたい。ただそれだけを総士が願い、必死にそのこころを世界につなぎとめていたことが。
かなしい、とか、むなしい、とか、そんな言葉では表せない。父の腕をつかんでいた指から力が抜けていく。沸騰して混乱した思考が、頂点に達した途端に冷えていく。浅くなった呼吸を宥めるかのように、史彦の手が一騎の背を撫ぜた。
「一騎」
静かな声だった。怒るでも諫めるでもないのに、抗えない声音だった。一騎は唇を戦慄かせながら史彦を見上げる。
「父さんは、彼を総士くんだと、思っている」
え、と、一騎は目を瞬かせた。「父さん」と史彦がここで、アルヴィスの中で言うことは今まで一部を除いてはなかった。あくまでアルヴィスにいるときの史彦は司令だ。一騎に戦えと命令をくだす人であって、米を炊くのもままならない父親ではない。しかし、敢えて、今、史彦は「父さん」と言った。
一騎の視線を受け止めたまま、史彦は続ける。
「総士くんが島民に受け入れられるために、目に見えるデータを包み隠さず示すことは必要だ。総士くんもそれがわかっているから、自らすすんで隔離と検査を求めた。だが、すでに多くの彼を知るものたちは、総士くんの存在を疑ってなどいない。…今、一番彼の存在を不安に思っているのは、彼自身だ」
総士、が、と、一騎は呆然と口を動かした。声になっていたかはわからない。
総士は島に拒絶されているわけじゃないのか。人々に疑われているわけじゃ、ないのか。それなのに総士が総士自身を、不安に思っている?
はくはくと浅く繰り返していた呼吸が徐々に落ち着きを取り戻し、一騎は史彦から手を離した。一騎が落ち着いたことを確かめて、史彦はもう一度、カードキーを一騎の手の上に乗せる。
「もう暫くしたら、他の仲間たちにもこれを渡す。名目上は、親しい者たちと触れ合わせることで、皆城総士の記憶や言動に齟齬がないかを、再度確認するという検査の一環だ。面会室には監視カメラがある。音声と映像は記録され、いくらか編集のうえで、必要な部分のみ島民に公開される」
史彦の言葉は、一騎にしっかり確かめさせるかのようにゆっくりと丁寧に紡がれる。名目上は、と、そう敢えて言った父の意図を、一騎は正しく飲みこんだ。敢えて父として、総士の存在を信じていると告げた意味も含めて。
カードキーをしっかりと握りこんだ一騎に、史彦は小さく微笑みを浮かべた。
「お前が、総士くんのためにできることを、考えなさい」