第三章
わかってはいたはずだろう、と、総士はこころの内で独りごちた。
手元の端末には、ここ二週間程度で調べ尽くされた総士のからだについてのデータが映し出されている。被検者である総士自身がこのデータを見ることに対し、アルヴィス上層部は特に制限を設けなかった。ありのまま、包み隠すことなくすべてを暴かれることを総士が許容したのに応えるかのように、彼らもまた、総士に何かを隠そうとはしない。アルベリヒド機関からの意見、アルヴィス上層部の会議における皆城総士に対する見解、検査を主に担当した遠見千鶴の所感まで余すところなく、総士が閲覧することを許した。
総士が人なのかフェストゥムなのか、という疑問に、結論は出ていない。――否。「結論が出ない」ということこそが、結論だった。
体組織は人に限りなく近いが、大部分は珪素で構成されていて、完全な人体とは言えない。だが、来主操のように人のレプリカであるとも言い切れない。さらに、フェストゥムに似た能力を有していることも確認された。強いていえばコア型に似ているが、ソロモンが反応しないため、断定もできない。人とフェストゥムの融合――言ってしまえば「どっちつかず」のからだである。
そのうえでアルヴィス上層部は、ここにいる皆城総士を名乗るものを、かつての皆城総士と同じ存在として受け入れるという方針で、島民への理解を促している。総士が見ているこのデータも、要点をかいつまんだうえで、すでに島民へは公開されているはずだった。隔離された部屋とメディカルルームの行き来しかしていない総士には、外で、島民たちがどういった反応をしているのかはわからない。ただ、会議における報告の中に「島民の中に強く反発するものは今のところ出ていない」という一文を確認しているだけだ。
この議事録を総士が見るとわかったうえで、当たり障りのない言い方をしているのだろうか。自分らしくもなくよぎった考えに、総士は苦笑する。ありえない。アルヴィスの大人たちはどこか優しく、甘いところがある。だがそれは真実を誤魔化すための優しさではない。総士自身が誤魔化されることを望んでいないのを彼らは知っている。
煮詰まっていると言うべきか、気が滅入っていると、言うべきなのか。普段よりも後ろ向きで埒の明かない思考を打ち切るように小さく息を吐いて、総士は端末の電源を落とした。
身体的な検査はし尽くされた。今日以降、定期的なバイタルチェック以外の検査はない。つまるところ、総士が総士であると証明するための術はほぼなくなったと言っていい。
いや、そもそも、証明する術など最初からありはしなかったのだ。わかっていた。どれほどデータを取ったところで、総士自身がそれを疑えばきりがない。
本当にお前は皆城総士なのか?
周りの誰もそう問いはしない。問うているのは、ずっと、総士自身だ。
――それが、君の不安なんだろう?
史彦の言葉がよみがえり、総士はそっと目を伏せる。
不安、というものなのだろうか、これは。こころだけを残し、フェストゥムの世界に触れながら、人でありたい、島へ帰りたいと望みながら過ごした年月に感じていたものとよく似ている。自分の存在があいまいになって、どこか見知らぬ暗闇へ連れ去られてしまいそうになる。海の中にいるような、あるいは空の中へ放り出されたような、覚束なさと揺らぎ。肉体は確かにここにあって、望んでいた島へ戻って来たというのに、総士のこころがそれを受け入れられないままだ。
これが続くのは良くないとわかっている。自身の存在を認められないということが、単純におそろしいのではない。
ここにはじめから僕という存在はいないのだ、と、そう思った自分がかつて何をしたか、総士は覚えている。忘れるはずはない。
夏の日差し、蝉の声、悲鳴、血潮、痛みとよろこび。
どこにもいないなら、個として存在できないのなら、お前とひとつになりたいという欲求。
フェストゥムとの融合体になどならなくとも、総士のなかには昔から、同化欲求があった。もともと総士はフェストゥムに近い。
もちろん総士だけではなく、この島で生まれた子どもたちにはフェストゥム因子が組み込まれているため、外の世界に暮らしている「ふつうのにんげん」とは違う。総士たちの世代はずいぶん安定しているが、それまでには、遺伝子の同化現象で自身のいのちを飲みこまれるものもいれば、他者を同化しようとするものもいたことは事実だ。しかしそれが島の在り方だった。敵を滅ぼすため、敵と対話するため。各々がこころに秘めた意志は相反していても、敵のいる世界で生き抜くために、敵の力をも取り込んで共存しようとした。だからこそ、人ともフェストゥムとも判断できない総士のことも、拒絶するのではなく受け入れてくれようとしているのだ。
それは、よくわかっているし、うれしいと思う。
だが、総士が総士自身を認められないままでいるということは、あのときのように――存在を見失い、一騎を同化しようとしたときのように、なりかねないということだ。
それだけは、あってはならない。
総士は無意識に、左目の上にはしる傷痕を指でなぞる。肌のうえに引き攣れたように残ったそれは、以前のままだった。触れていると、こころが鎮まっていく。
――どうして、痛みを残そうとするの?
いつだったか、一度、彼に――操に、訊かれたことがあった。
「痛いのも苦しいのも嫌だよ。総士だってそうでしょう?それなのに、どうして傷を残すの?」
消してしまえばいいのに、と操は言った。
肉体の再生によって、左目に視力は戻っている。検査結果にもそれははっきり出ていたし、事実、島に降り立って久しぶりに視界に飛び込んできた海や空の蒼は両目にまばゆく映った。両方の目で見る、というのは、こういうものだったろうか。驚きとともに、よろこびがあった。
かつて、ファフナーのテストパイロットとして搭乗実験に参加したとき、自身の存在を規定する左目の傷が癒えたかのように両目が見えてしまうことを、総士は受け入れられなかった。見えるということ、ファフナーと一体化するということが、存在を見失い、人ではない何かになりそうだった昔の自分を思い起こさせ、抗いがたい恐怖として総士を襲ったからだ。守るために戦いたいのに、誰よりもいちばん前で、みんなを守りたいのに、その想いがあっても、総士はファフナーに乗れなかった。
だが、そののち、一騎と対話するようになり、わかってほしいと望んでいた自分の想いを一騎が理解し、そばにいてくれるようになった。たとえ目が見えても、総士は総士だとつなぎとめてくれる存在がそこにいる。過去の自分も含めて、皆城総士という在り方を、総士は選び、受け入れた。だからもう、左目が見えることはこわくない。
それならばなおのこと、傷を残す必要はないじゃないか、と操は不思議そうにしていた。
見えることを受け入れることと、傷痕をなくすことは少し違う。
これはあかしだ。
一騎が総士を総士にしてくれたあかし。皆城総士という存在のかけら。心臓が脈をうち血をめぐらせるように、総士が生きるためにそなわった大事なからだの一部。
かつて一騎を罪悪感で苦しめながら、一騎がこの傷によって自分から離れられないことをよろこんでいた。いや、その気持ちは今もなおあるかもしれない。だが一騎はもう、傷痕がなくても総士に手を伸ばしてくれる。そばにいてくれる。わかろうとしてくれる。必死で総士の帰る場所を守ってくれたように。
傷痕を必要としているのは、総士だけだ。
一騎になにかを望むためではなく、総士が欲しがっただけなのだ。
傷痕への執着。傷をつけた一騎への執着。それは結果として、存在への執着へむすびつく。生きていること、ここにいること。それらへの希求が、視界を取り戻してもなお、この傷痕に現れているのだ。
だから、触れれば安堵する。
――その傷痕さえも、作り直した偽物ではないのか?
――お前は本当に、その傷痕を持つ資格のある皆城総士なのか?
こころの奥深いところから湧き上がってきそうな不安を、総士は、ちがう、と、否定しながら傷痕の感触にだけ意識を集中させた。
――ふれてほしい。
不意にぽつんと思考の中に浮かんだ言葉に、総士ははっとする。
ふれてほしい?誰に?
いや、この傷痕に触れることを許容できるのは、そもそも――…。
そのときだ。
ピピ、と、部屋の外で電子音が響いた。次いで、扉の開く音がする。ロックが外されて、誰かが入って来たのだ。
もう今日の検査はないし、夕食にはまだ早い。一体誰だろうかと思いながらガラスの向こうへ目をやって、そこに現れた人影に、総士は一瞬すべての動きを止めた。
「か…、」
ず、き、と、その名が喉の奥から掠れて零れて空気に溶ける。
ガラスの向こうに、よろめきながら姿を見せたのは、まぎれもなく一騎だった。
*
――ああ、総士だ。
総士が隔離されている部屋の手前、面会室からガラス越しにその姿を見とめた瞬間、一騎は全身から力が抜けるような感覚に襲われた。
空の下で見たときと同じ、いや、かつて、二年前に失ったと思ったときと同じ姿がそこにある。亜麻色の長い髪、驚きに瞠られた、きれいな紫がかった灰色の瞳。薄いくちびるが動いて、か、ず、き、と、確かに自分の名を紡ぐ。ああ、いるんだ。総士がいる。がくりと折れそうになる膝を叱咤して、なんとか一騎は大きなガラス窓に手をついて、倒れかけたからだを支える。そのようすを見て慌てて寄ってきた総士が、ガラスを隔てた向こうで「一騎!」と声をあげる。内臓されたスピーカー越しに聞こえる声も確かに、まちがいなく総士のものだ。低くて、つめたい印象を持たれることもあるけれど、こうして感情が露わになると少しだけ高くなって掠れる声。心配そうな声音がなぜかうれしくて、一騎はゆっくりと視線をあげて、こころのまま、くしゃりと顔をゆがめた。泣いているんだか笑っているんだかわからないそれを、わずかに滲んだ視界の向こうで、総士が瞳を揺らしながら見ていた。
「そう、し」
自分の、総士を呼ぶ声。そこにいるからこそ呼ぶことができる。そう思っただけで、ぐちゃぐちゃになった胸のうちから何もかもを、ぶちまけてしまいそうになる。
「……かずき」
ゆっくりと噛み締めるように、総士のくちびるが動いた。総士の声が、じん、と一騎のからだにしみこんでいく。歓喜があふれた。
「っ、う」
ぼろぼろと両目からこぼれだしたものは勢いよく頬をつたって落ちてゆき、視界に膜を張ってしまう。これじゃ総士が見えない。そう思って、片手でからだを支えながら、もう片方でごしごしと目を擦る。それでもまったく止まらない。
「一騎、やめろ、目を傷めてしまう」
優しい声だった。手は届かないのに、まるで総士のあの少し冷たい指先が、頬に触れてなだめるように撫でていると錯覚するほどに、その声を近くに感じる。嗚咽も涙も止められないまま一騎は顔をあげ、ぴたりとガラスに額を押し付けた。
「そう、し」
「……ああ」
「そうし……」
なんだ、かずき。
一騎の押し当てた額の向こうで、総士も合わせるようにガラスに顔を寄せた。てのひらをぴたりと押し付ければまた、総士は応えるようにそこに彼の手をあわせる。相変わらず白くてきれいな、しかし少年らしく少しだけ骨ばったところが見える手だ。防弾性も備えた硬質なガラスは熱など伝えるはずはないのに、確かに一騎はそこに総士のぬくもりを感じた。
「っ、ひ、っぅ……」
涙はとっくに一騎の制御できる範疇を超えてしまって、ほんとうに壊れたように流れてゆく。そうだ、そういえば、この二年で自分は涙を流したことがあっただろうか?覚えていない。もしかしたらこれは二年分、たまりにたまった涙かもしれない。総士に会いたいと願って、その先にいるのだと感じながらも溺れることができなかった海。そこにためこんだ水分がぜんぶ流れ出ているのだとおもった。
「一騎…」
涙の膜のむこう、総士の顔は滲んでいたがちゃんと一騎の目に映っている。彼は何とも言えない表情をしていた。困ったように眉を寄せ、ガラスに当てた指先が、硬質なそれを掻くように曲がる。迷うような、躊躇うような、それでいて、なにかを求めるような。もどかしいと思った。このガラスのむこうに手を伸ばせるなら、総士のその手をつかんで引き寄せて、いつも自分の感情を押し込めてしまう彼の瞳を間近に覗き込み、どうした、と、そう問うことができるのに。
かつてのように目を逸らさなくてもいいのに。交わせる言葉があるのに。失って、戻って来て、ここにいるのに。どうして総士に触れられないんだ。どうしてこんなガラスを通して話さなきゃいけないんだ。
涙が徐々に引いてくると、次いで湧き上がってきたのは、史彦の言葉に憤ったときと同じ衝動だ。
「そう、し」
「なんだ?」
どうしてそこから出てこないんだ。どうして自分を疑うんだ。お前は何がこわいんだ。なぜ、どうして、なぜ。
引きつった声で続けようとしたその疑問を、一騎はすんでのところで飲みこんだ。
――…今、一番彼の存在を不安に思っているのは、彼自身だ。
史彦の言葉がよみがえる。一騎は、ぐい、と、目元を拭い、もういちど、はっきりと開いた目で総士を見る。ガラスを隔ててもなお真っ直ぐに自分を見つめて来るうつくしいひかり。記憶と寸分たがわない総士の瞳。ゆらり、と、それが揺れるのをたしかに一騎は見とめる。
不安なのか、総士。
何がこわいんだろう、何がお前をおびえさせているんだろう。お前を傷つけるものすべて、俺が退けてやりたいのに、それがわからない。
でも、これだけはわかる。今、総士にかけるべき言葉は、一騎の不安や憤りをまぎらわせ、押し付けるための問いではない。
一騎はゆっくりと呼吸をして、彼にいちばんに告げたかった言葉を、海と空のなかで伝えた言葉を、もういちど、はっきりと言葉にする。
「…総士、おかえり」
総士は目を瞠り、コマ送りでもしているかのように、ゆっくり、ゆっくりと、瞳と口元をほころばせた。
「ただいま、一騎」
*
それから一騎は、総士を失ってから過ごした日々のことをぽつりぽつりと、うまく回らない口で伝えた。
クロッシング状態にあったということは、何もかも知っているのではないかと思っていたが、どうもそうではないらしい。恒常的にクロッシングを行い、マークザインを通してマークニヒトを封印していただけでも、一騎にかかる負担は大きかった。ゆえに、できる限り制限をしていたと総士は言った。
「でも一騎カレーは知っているんだよな」と言うと、総士は悪戯が見つかったこどものように、それは、その、と、視線をうろうろさまよわせた。まだ総士とうまく会話ができなかったころ、あんなに総士がわからない、と思っていたのが嘘のように、いま目の前にいる総士はわかりやすい。
「制限しようと思っても、お前のほうへ引きずられることがあったんだ。精神だけの状態でいると、ときどき不安定になる。無に飲まれそうになったときは、意識を…お前に向けざるを得ないから、そうすると…クロッシングの範囲は必然的に広くなって…感情だけではなく、お前を通して五感を得た状態になることがあって…」
故意じゃない。とでも言いたげな総士に、一騎は思わず頬をゆるめる。
「意識はなかったけど、俺、お前の役に立てたんだな」
「…役に立つ、などという言い方をするな」
「じゃあどう言えば良いんだ?」
きょとんと首を傾げた一騎に、総士は「う」と言葉を詰まらせたのちに、「…お前が、僕の存在をつなぎとめてくれたんだ」と小さな声で言った。
「お前のいるところへ、僕は帰りたかった」
かすんだ視界。それでも美しく見えた島の景色。笑っている仲間たち。心配そうにお前に声をかけるひとびと。お前がひとりでたたずんだ海の温度。日差しの熱さ。潮風と緑のにおい。――お前がつくる、あたたかな食事。
「それらすべてが、僕を諦めさせなかった」
ありがとう、と静かに総士が言うので、一騎は止まったはずの涙をまたぼろぼろと流すはめになった。
お前はそんなに泣くやつだったか、と、総士はガラスのむこうで苦笑する。「もどかしいな」と小さな声がした。彼自身、無意識の言葉だったらしい。一騎が涙を流しながら視線を向けると、どうかしたかと言いたげな顔をする。いつの間にか伸ばされていた総士の白い手がガラスを掻いた。
あ、と、一騎は思いいたる。
さっきとおなじだ。
もどかしい。つぶやかれた言葉、伸ばされた指。ああそうか、総士、お前も、この距離を厭わしく思っているのか。伸ばしても触れられない手を、拭えない涙を、もどかしく思っているのか。
ひくひく引きつり嗚咽を零していた喉から、掠れた声が出る。
「……さわりたい」
「…っ」
「おまえに、さわりたいよ、そうし」
――俺も。
言外にそうにじませて、総士の指先が引っかいたあとを、一騎はゆっくりと指でたどる。硬く分厚いガラスに傷などつきはしない。それでも一騎と総士はじっと、そのあとを見つめていた。
もどかしく静かな時間がしばらく過ぎたころ、ピピ、という無機質な電子音が面会室に響いた。一騎が入って来たときと同じ音がして、扉が開く。その向こうに、溝口が立っていた。
彼は「おまえらー、もう夕メシの時間だぞー」と言って肩を竦める。彼の後ろには、アルヴィスの食堂のものと思われる盆に食事を乗せた白衣の医療スタッフが立っている。時間の経過など気にしていなかったが、どうやらもうとっくに日は暮れているらしい。おそらく総士の夕食を持って来たものの、入るに入れずに立往生していたスタッフを見つけた溝口が気を利かせたのだろう。
「今日はこのへんにしとけ」
な、と、言う溝口にいやだと言いかけて、けれど言えずに、一騎は口を閉じた。ふと息を吐いて、おとなしく腰かけていた椅子から立ち上がる。わずかに揺らいだからだを壁に手をついて支えると、総士が心配そうに眉を寄せた。
「まだ体調が万全ではないのだから、無理はするな。僕のことを気にせず休め」
かつてファフナーを降りるたびに「早く検査を受けてこい」と口酸っぱく言っていた姿と重なり、一騎は小さく笑った。
「無理じゃない。総士のそばにいるほうが落ち着くし、安心する」
素直に思ったままを口にしただけなのに、総士は「な」と変に口を開けたまま固まっていた。じわじわと白い頬が赤くなっていくのを見ながら、やっぱり前と変わらない、ちゃんと総士じゃないか、と、一騎は思っていた。一騎の言葉のなにが総士の琴線に触れてしまうのか、一騎自身にはさっぱりわからないのだが、総士と向き合って話をするようになってからというもの、総士はよく一騎に「お前には恥ずかしいとおもう気持ちはないのか」とか「お前はストレートすぎる」とかなんとか言っては赤くなっていたものだ。あの頃と総士の反応は変わらない。
それでも総士は総士がこわいんだろうか。信じられないんだろうか。燻る疑問はこころにとどめたまま、「明日も来る」と言って、扉へ向かう。
本当は、帰りたくなんかない。たった数時間いっしょにいただけで、満たされるわけがない。みっともなくてもいいからガラスに縋りついて、溝口に引き剥がされるまでいっしょにいたい。
十七を迎える一騎にとって、二年という月日はあまりにも長かった。永遠にひとしいときを、思いがけず、突如としてうばわれてしまった総士を待ったときを埋めるには、いくら時間があっても足りない気がする。
名残惜しげに面会室の入り口で振り返った一騎を、総士はやわらかな表情で見ていた。
それがさみしそうに見えたのはきっと、一騎の勘違いではない。ぎゅっと胸が詰まった。今すぐ踵を返してそばへ寄って行きたい。それでもその衝動を押しとどめたのは、取って返したところで、ガラスのむこうへは行けないと思ったからだ。
「おやすみ、総士」
だから、また明日も総士に会えるという喜びだけを噛み締めて、一騎は部屋を出た。
*
カメラで全部記録してるってのをお互いちゃんと知ってるはずだよなぁ、と言いながら溝口は笑い声をにじませた。史彦は隣に立つ彼にちらりと視線を投げたあとで、目の前の画面を見る。
それは総士が隔離されている部屋と接する面会室の監視カメラの映像だ。リアルタイムで送られてくる映像を確認しているだけのはずで、それはアルヴィスの司令としては何ら問題ない行動――いや、むしろ義務であるはずなのだが、どうにも「のぞき」のようで居た堪れない。自らの司令としての言動を開示することには全く躊躇はないし、溝口に呆れられるほど、島民に対して徹底した情報公開を行う史彦ではあるが、逆に他人を垣間見ることには抵抗がある。もちろん司令として必要であれば情を挟まないようにはしている。とは言え、息子と、その唯一無二の親友との会話をこうして隠れて見ているというのはどうにも落ち着かない。
一騎にも総士にも監視カメラのことは伝えてある。わかっているはずだ。必要があれば島民に対してそれが公開されることも、知っているはずなのだから、史彦が見ることも承知しているだろう。それでもどうにも、いたたまれない。
一騎と総士の面会が叶ってから一週間。他の仲間たちとの面会も許可され、今日の午前中の面会室はずいぶんと賑やかだった。
総士のいないあいだに何があったか、どれほどみんなが心配していたか、会いたかったか。戦いのなかで苦しい思いをしてきた彼らの明るい声と屈託のない笑顔は、この島に再びおとずれた平和を象徴するかのようだった。
「咲良、本当に動けるまでになったんだな、良かった」
「カノン、からだはもう大丈夫なのか。ああ、髪を伸ばしたんだな」
「剣司、何を泣いているんだ。お前まで涙もろくなったのか」
「…遠見、どうしてそこでため息を吐く」
受け答えをする総士の言葉は終始やわらかかった。冷徹であろうとしたかつての指揮官としての彼はなりをひそめ、ただ仲間との再会を喜ぶ少年がそこにいた。
名目上、仲間との面会が許可されたのは、総士の記憶や言動を確認し、皆城総士であるという確証を得るためだ。だがそれは本当に名目でしかない。確証を得たいのはアルヴィスの大人たちではなく、総士自身だ。
ここまで、総士が帰って来て三週間。アルヴィス上層部の結論はすでに出ている。帰って来た皆城総士は、体組織こそフェストゥムとの融合体に変わっているが、かつての皆城総士と同じ存在である、という結論だった。だが、島民にはまだ伝えてはいない。最後に決めなければならないのは総士自身にほかならないというのが、史彦をはじめ、アルヴィス上層部の想いであった。
そしてその鍵となるのは、一騎の存在だ。
午前中、仲間たちとの再会を一歩下がったところで見ていた一騎が、今はぴったりと隔離室のガラス窓に身を寄せている。体調はほとんど回復して、そろそろ自宅での療養に切り替えてもいいと思います、というのが千鶴の診断だ。
回復している、とはいえ、万全ではないのだろう。ガラス窓に寄りかかった一騎は、うつらうつらと舟を漕いでいる。そのむこうで総士が「部屋に帰って休め」と言い、一騎はふるふると首を振る。
「ぜったい、いやだ」
「…頑固だな、お前は」
「お前に言われたくない」
ふあ、とあくびをした一騎は不満そうな声を出した。不機嫌なこどものような声音も、すっかり気の抜けたあくびも、この二年でまったく見られなくなったはずのものだ。史彦はそれを知っている。面会が許可された最初の日、一騎は言っていた。総士のそばにいるほうが落ち着くし、安心する、と。それは事実なのだと思い知る。
この一週間、総士の監視として詰めている特殊部隊の隊員たちから「今日も一騎くんべったりでしたね」と、史彦は毎日苦笑いと共に報告されている。監視カメラがあることがわかっていても、近くに特殊部隊が待機していることを知っていても、一騎は総士の前で素をさらし続けた。何とも言えないむず痒さや恥ずかしさがないわけではないだろう。総士がすべてをさらしているように、自分もそうする。一騎はおそらく、そう考えている。
総士の前で取り繕わない。自然でいる。そうすれば総士も、同じように返してくれる。それが見えれば島のひとは総士を拒んだりしない。
最初の面会が終わったあと、一騎は史彦にそう言った。
島民から、総士に対して特に否定的な意見は上がっていない。ほとんどのものが、幼いころから総士を知っている。彼が島のために尽くしてきたことも。だが、ただの人ではなくなった彼に対しておそれを抱くものがいることも確かだ。直接的な言葉にしなくても、島の中を歩けば、視線や囁きでそういった雰囲気は伝わってくる。総士は敏い。彼が外に出たときにできる限り傷つかないよう、もっと島の人に、総士のことを知ってもらいたい。それが一騎の想いなのだろう。
落ち着いて物事を考えるようになった、と、史彦は思う。
総士が隔離されていると知ったときは激昂していたが、総士くんのためにできることを考えなさい、という史彦の言葉に、一騎は自分なりの回答を見つけようとしている。怒りに任せるのではなく、駄々を捏ねるのでもなく、総士のために自分ができることは何か、冷静に考えている。
「それ、許可したんだろう?」
溝口が指さしたのは、史彦の手元にある端末だ。それにはとある稟議書が映し出され、起案者名は真壁一騎となっている。
アルヴィスの大人たちには見慣れたその様式を、「どうすればいいんだ、これ」と言いながら眉根を下げた一騎は、容子や千鶴に助けを求めながら、試行錯誤のすえに作り上げたらしい。一騎は自分の機体の整備を行ったり、機体に流れ込むデータの処理をしたりは慣れているはずなのに、アルヴィスで支給される端末にはあまり触れたことがなかったようだ。
思えばいつも一騎は、総士が端末を片手に会議資料や報告書を作っているのを「お前、よくこんなのすぐ作れるよなぁ…」と言いながら見ていた。だが、一騎は「できない」のではなく、「やりたくない」だけだと史彦は知っている。学校の成績とて、ずば抜けて良くもないが、悪いわけでもない。理解力や判断力は高いのだ。そうでなければ、指揮官の指示があるとは言え、前線で身を守れない。
そんな一騎が数日をかけて作った稟議書の件名はこうだ。
《皆城総士の一時外泊について》
会議で話してもらうにはこういうのがいるんだろ、と、端末を見せて来た一騎に、史彦は思わずぽかんと口を開けてしまった。
「お前…、どうしたんだ」
思わず訊いた史彦に、一騎はむすっとした顔で視線を逸らした。照れ隠しをしたり、居心地が悪かったりするときの仕草だ。
「……ガラスの向こうに行くにはどうしたらいいか考えた。総士なら、…逆だったら、あいつはどうするだろうって。扉をこじ開けて連れ出すこともできるけど、たぶん、それじゃあ意味がないから」
まずちゃんと話したいんだ、と一騎は言った。
「命令だったら、会議で決定したことだって言えば、総士は聞くだろ。本当はそういうの、嫌なんだ。でもまず総士をあの部屋から出して、ちゃんとあいつに触れて、お前はここにいるって伝えたい。俺には総士がどうしてあんなに不安そうなのかわからない。何がこわいのかも。…なぁ父さん、俺、来主のこと最後まで敵だって思えなかった。あいつはフェストゥムだけど、泣くし、犬をこわがるし、カレーをおいしいって言って食べて、空がきれいだって喜んでた。俺たちを、守ってくれた。総士だってそうだろ。からだは俺たちと同じものじゃないのかもしれない。でも総士は総士だ。それを、総士にわかってほしい」
いつからだろう。
いつから、一騎はこんなふうに、自分の想いを口にできるようになったのだろう。
昏睡から目覚めて、どこか不安定なまま日々を過ごしながら、素直に言葉を発するようにはなっていた。だがいつも、こころはここにあらずといった様子で、柔らかく笑い、穏やかに話しながら、それでも何かがちがう、と思わせるときがあった。遠くへ行ってしまいそうな、触れれば壊れてしまいそうな危うさがずっとあった。
だが史彦を前に語る一騎は、憤りの熱をともしながらも、ひとつひとつ言葉を選び、つたなくはあっても、相手に伝えようとする真っ直ぐさがある。芯の強さがある。
思えば、来主操との対話のなかでも、一騎は懸命に伝えようとしていた。操が何をこわがっているのか、本当は何がしたいのか。自分のこころを相手に見せ、また、相手のこころをくみ取りながら、最後まであきらめずに話し続けた。そうしてきっと一騎は、対話すること、こころを交わすことの意味を、またひとつ学び取ったのだ。
こどもは成長する。駆け足で成長せざるを得ない世界をつくってしまった大人たちが予想するよりも早く、成長していく。気づかないうちに。
史彦はじっと端末を見つめてから、ゆるく口の端を上げた。
「…わかった。この稟議書は会議にかけよう。許可が出たら知らせる」
「ありがとう、父さん」
ほっとしたように頬を緩めた一騎の表情は、史彦のよく知る、幼げなそれだった。
その日の会議において、元より稟議書の作成に関わっていた容子と千鶴は、一騎の文章をフォローするように「バイタルは落ち着いていますし、二人とも外に出るのは問題ないかと」「一騎くんと真壁司令が名目上監視ということでついていれば、島民も不安がらないと思います」と意見を述べた。一騎が島を飛び出して帰ってきたときもそうだったが、アルヴィスの上層部はこどもたちに甘い。いや、島の大人たちの多くがそうだ。遺伝子操作を行い、こどもたちを前線に送る。タブーに手を出しながらも、そもそもそれは、こどもの生きる未来に少しでも希望を託そうという思いからであると考えれば、当然なのかもしれない。島の人々のいのちを預かっている以上、慎重な判断を迫られることはもちろんある。しかし今回の一件は、すでにその範疇ではないと結論付けられているようだ。
「まぁ何かあったら汚れ役がいるしな」
などと、溝口が片目を瞑りながらだめ押しをしたのが決定打だった。
もしも総士がフェストゥムとして何らかの行動を起こし、それが島に危害を与えることになればきっと、溝口は躊躇わないだろう。しかし、そうなることはないだろうとでも言いたげだった。
「一騎には言ったのか?」
「ああ。一騎が、自分から総士くんに伝えると言うから、総士くんには伝えていないがな」
「はぁ、なるほど。それで切り出すタイミングをみはからってんだな」
溝口は面白そうに画面を見やる。うつらうつらとしていた一騎はからだを起こして、ちらりとガラスの向こうを見やっては視線を落とす、という行為を繰り返していた。アルヴィスの命令、という手段で総士に外出をうながすのが躊躇われるのか、それともただ、どう言葉にしていいかわからないのか。
そうなるだろうとは思ったが、ついに痺れを切らしたらしい総士が「何なんだ、一騎」とため息交じりに問いかける。
「僕に何か言いたいことがあるんだろう?」
「…う」
そうなんだけど、と、一騎が言いにくそうにする。
「…言いにくいことでも構わない。言ってくれ。もうお前の考えていることを誤解したくはない」
総士の言葉には切実な響きがあった。互いに言葉が少なくすれ違ったころがあったぶん、想いを口にしないで生まれる誤解に対するおそれは大きいだろう。総士に誤解をさせてはいけない、と意を決したらしい一騎が、立ち上がって総士に向き合った。
「総士、うちに泊まりに来てほしい。め、命令で!」
ばっと一騎が総士の前に突き出したのは端末で、おそらくそこには決裁済、と赤く押印された件の稟議書が表示されているはすだ。もっと他に言い方はあったんじゃないだろうか、と、史彦は額に手を当てる。いや、一騎らしいと言えば、らしいのだが。
「……………、は?」
数秒の沈黙ののち、総士は間の抜けた声を出した。画面にはっきりは映っていないが、せわしなく目を瞬かせているようすが目に浮かぶ。
「いや…、待て、どういうことだ?僕がここを出ることが…許可されたと?」
こくこくと頷いて、一騎はずい、と端末を前に出す。一騎が一生懸命に打った《皆城総士の一時外泊について》を、総士はとりあえず斜め読みしたらしい。本当だ、と、呟いて、しばし黙り込む。
「……お前…、どうして、こんなもの…」
零れた声は困惑に満ちていた。
「お前とちゃんと話がしたい」
「…しているだろう、毎日」
「違う。ここじゃだめだ。お前にちゃんと…こんなものを間に挟まずに向き合って、お前が何をこわがってるのか、俺は知りたい」
総士が黙り込んだ。モニターからでははっきりと表情までは見えないが、何かを言おうとしては躊躇っているような沈黙が流れる。一騎はじっとガラス越しに総士を見ている。
ぼくが、と、総士の微かな声がした。
「…お前は僕が、何かをおそれていると、思うのか」
それは問いかけのかたちを取っていたが、わかっていて確認をしているように史彦には聞こえた。
「ちがうのか」
一騎の答えも問いではなかった。またしばらく沈黙が続いたのち、わかった、と、総士が言った。
「そもそも真っ当に会議で決定されたことを、僕から覆すようなことはできない。命令ならば従おう」
「……命令、とかじゃ、」
本当はそういうんじゃない、と、小さな声で言った一騎に、わかっているさ、と答えた総士がどんな顔をしていたのか、史彦にはわからなかった。ただその声は、普段の総士の声とはちがう、とてもやわらかなものだった。