第四章

 本当にたったこれだけでいいのだろうか、と、総士は目の前のバッグを見つめた。
 今日は、一騎の作った稟議書により許可された、真壁家への外泊、その初日である。特に何も持って来なくていいぞ、などと一騎は言っていたが、さすがに着替えは必要だろう、と用意したのが目の前のバッグだ。用意した、というより、用意してもらった、というのが正しい。
 小ぶりなボストンバッグには二晩分の着替えと端末しか入っていない。検査着と制服のみで過ごし、隔離室とメディカルルームの往復しかしていなかったために気にしていなかったが、総士にはそもそも自分の持ち物というものがない。アルヴィス内の総士の居室は以前のままになっているらしく、探せば衣類も整えられてはいるのだろう。しかし、「勝手に君の部屋を漁るわけにはいかないし」と言って、バッグも着替えも、男性の医療スタッフが新しいものを用意してくれたのだった。
 以前着ていた私服だけは、クリーニングに出されていたままだったらしい。持ち主が帰らぬまま置き去りにされていた服はそのまま総士に届けられた。着慣れたシャツもパーカーも、以前と変わらぬまま総士のからだを包んでいる。メディカルデータを目にしているためにわかっていたが、体格が十四歳のときから変わっていない、ということを実感した。これから人並みに成長速度が戻るのか、このままなのか、全くわからない。様子を見るしかないわね、と、千鶴には言われている。
 そんな、何も解明されていないからだで、こんなに安易に、外に出ることが許可されてもいいものなのだろうか。
 一騎の稟議書を見てからずっと、胸のうちでめぐっている問いだった。
 史彦が言っていたように、フェストゥムであることが明確にわかっていた操も、一騎を伴っていれば自由気ままにあちこち歩き回っていた。それを考えれば総士が監視――といっても一騎である――つきで外に出て、アルヴィスの司令がいる真壁家に泊まるというのは、何も特別に警戒しなければならないことではないのだろう。むしろ司令である史彦と、今は療養中であるとはいえエースパイロットである一騎の元にいるほうが安全だと思われるかもしれない。一騎の稟議書にも似たようなことは書いてあった。一騎自身が考えつくとは思えないので、おそらく誰かがうまくアドバイスしてやったのだろう。
 命令ならば総士が頷くとわかっていて一騎は稟議書などと、今まで触れたこともないようなものを作った。けれど、本当は命令なんかじゃない、と、そう苦々しく言った彼を見れば、本当はやりたくないのに、総士を連れ出す手段としてやらざるを得なかったのだ、ということは明らかだった。
(僕がいつまでも、こんなふうに、悩んでいるからか)
 自分は島にとって脅威なのではないか。
 本当に皆城総士という存在なのか。
 島と共に生きることを、再び、許されてもいいものなのだろうか。
 総士が不安に思っていることを、自分自身へのおそれを、一騎はおそらく、感じ取っている。お前が何をこわがっているのか知りたい、と、言った真っ直ぐな瞳を思い出すと、なぜか焦がれるように胸がじくりと痛んだ。何かがほしいとうったえるように、それが何かもわからないのに。もしもこれが、自分を失いかけ、また一騎とひとつになりたいという同化欲求に似たものだとしたら、どうする。それが何より総士の不安を煽る。
 ぐ、と、唇を噛む。そのとき、聞き慣れた電子音が響いた。はっとして顔を上げれば、千鶴が私服姿の一騎を伴って面会室に入って来る。迎えだ、と、気づいた。入るわね、と、声がかかり、千鶴が隔離室のロックを解除した。一騎がぴくりと反応し、それを察したらしい千鶴が小さく微笑む。
「一騎くんはここで待っていてね」
「は、はい」
 ガラスを――スピーカーを通さない一騎の声に、わずかに総士の肩が跳ねた。幸い、ふたりともそれには気づかなかったらしい。千鶴だけが総士のもとへきて、未だ腕に巻き付いていたバイタル計測装置をそっと外す。
「総士くん、改めて、あなたに二泊三日の外泊を許可します。もしも途中で気分が悪くなったり、身体に異常を感じたりしたら、一騎くんや真壁司令に言うか、端末で連絡をちょうだい。絶対に黙っていてはだめよ」
「はい」
 総士に否やなどあるはずはない。はっきり頷くと、千鶴は少し困ったように笑った。その意味を問うより先に、じゃあ行きましょうか、と、千鶴は総士を促して隔離室の扉を出てしまう。総士は荷物を持って後を追ったが、隔離室の外へ出る一歩前で、躊躇うように足が止まった。
 この期に及んで往生際が悪い。
 しかし、自嘲しかけた総士の前に、すっと、白い手が差し出された。
「総士」
 やわらかな声は、直に総士の耳朶を撫でた。ふにゃりと緩んだ頬、細められた榛の瞳。見ているほうがむず痒くなるような笑顔がそこにある。自身への不安も、躊躇いも、すべてが一瞬遠のいて、ただ総士は誘われるまま、その手に手を重ねていた。

        *

 アルヴィスの出口まで送ってくれた千鶴は、無茶だけはしないのよ、と言いながら笑顔で手を振ってくれた。まるで自分が幼子にもどったような、なんとも言えない気持ちになる。だが、千鶴のそういった母親のような態度だけがその原因ではない。総士はちらりと手元に視線を落とし、「…一騎」と隣に立つおさななじみの名を呼んだ。
「何だ?」
「その…、いつまで手をつないでいるつもりなんだ?」
 視線の先、ふたりのあいだ、離すものかと言わんばかりに一騎がしっかりと総士の手を握っている。手をつないでいる、というよりは、一騎につかまれている、というのが正しいだろう。隔離室を出るときに総士が一騎と手を重ねてからずっとこうだ。アルヴィスの中を歩いているときから、何度か離せと言おうとしたのだが、一騎があまりにもうれしそうにしているせいで、言い出せなかった。しかし、ここから先は外だ。人の目がある。
 総士が外泊すること、一騎が監視役となること、また、何かあれば溝口の部隊も待機していることが島民には予め伝えられている。彼らがどういった目で総士を見るかまだわかっていない状況で、十六、七にもなった二人が手をつないでいるというのは、いかがなものか。
「だめなのか?お前、嫌なのか?」
 本当になぜかわからない、といった顔で一騎が首を傾げるので、総士は言葉に詰まる。
 だめ…なのかと言われると、何らかの禁止事項に該当するわけではない。嫌なのか、という点については、正直なところ、答えに窮す。なぜなら、二年ぶりに確かに感じる一騎の手の感触と温度に、離れがたい、と、思っている自分がいたからだ。空の下で再会を喜んだときは本当に一瞬だった。それに肉体を取り戻したばかりだったので、からだの感覚すべてを自分のものとして確かに感じられたかと言えば、否である。近くで聞こえる一騎の声も、手から伝わる温度も、何の隔たりもなく視界に入る一騎の表情も、やっと、初めて、目の前にあるのだと感じられている。そのひとつひとつから、離れがたい。
 とは言え、手をつないだまま、多くの島民の目に触れるのも、困る。
「だめでも、嫌なわけでもないが、…恥ずかしいだろう」
「はずかしい……」
 やっと捻り出した言葉に、一騎はきょとんと眼を瞬かせたのち、ああ、そうか、と、少し目元を赤くした。
「ごめん、俺、お前にさわれるのが、うれしくて、つい…」
 ようやく羞恥という感覚を取り戻したらしい一騎が、名残惜しそうにしつつもするりと手を解く。総士はほっとする一方で、身勝手にも、それを残念に思った。そして一騎も「うれしい」と思ってくれているのだということに、なぜか胸がさわいだ。
 じゃあ行こう、と、一騎が総士を促して歩き出す。手は離したものの、ふたりは並んで、相手に合わせた歩幅で進んだ。総士が十四歳のままの体格であるからだろう。二年前には数センチほど下にあったはずの一騎の目線が、総士より少しだけ上にある。背が伸びたのだな、と、横に並んで初めて気づいた。もともと一騎の歩幅のほうが大きいし速度もはやいのだが、体格差もあるせいか、総士が意識して足をはやめなければ置いて行かれそうだった。一騎も途中でそれに気づいたのだろう。あ、という顔をして、少し歩幅を縮めた。
 千鶴が送ってくれたアルヴィスの出口は島の上部にあるものだったので、一騎の家を目指し、急な階段と坂の続く道をくだってゆく。島へ操を託したころには夏の盛りだった季節も、すでに秋へと移り変わっていた。斜面に沿って並び建つ家々の合間から見える木々の葉は色を変えはじめ、道端にはすすきが揺れている。ふわりと吹く風はからりと乾いていて涼やかだ。坂をずっとくだっていった先には、きらきらと光を反射させる海が見える。白い漁船が漁を終えて帰港している。
 ――ああ、何も変わらない、島の景色だ。
 総士は大きく息を吸い込んだ。島をはぐくみ守る大気が、肺を満たす。もしもいつか許されたなら、新しいコアに会いに行かなければ、と、そう思った。
 一騎も総士と同じように三週間地下で生活していたからだろう、「本当に、もう夏終わったんだな」と呟く。面会に訪れた剣司たちが「新学期始まったんだよ」「夏休みなかったようなもんなんだから、もう少し延ばしてくれてもいいのになぁ」などと言っていたので、とっくに秋に入ったということはわかっていたし、暦の上でも把握してはいたのだが、外に出てやっと実感したのだろう。
「そういえばお前、歩くのつらくないか?」
「ああ、大丈夫だ」
 検査のために地下へ隔離されてから以後、外に出るのは初めてだ。しかし、身体機能には特に異常は感じられない。一騎こそ、目覚めた当初はろくに歩けもしなかったはずなのだが、お前こそ平気なのかと問えば「お前、心配性だな」と笑って返された。
「大丈夫だよ。無理はするなって言われたけど、今は、目も見えるし」
 そう言って一騎は一度足を止め、総士を見た。階段の上に総士がいるので、一騎が見上げるような形だ。「…うん」と満足そうに微笑む一騎に、「何だ?」と首を傾げる。
「いや…、こうやって島の景色のなかにお前がいるの、ちゃんと見られるのがうれしいんだ」
 それが本当に、あまりにもうれしそうな顔だったので、総士は言葉に詰まる。ガラス越しでも多くの言葉を交わして来たはずなのに、互いの存在を視界に入れていたはずなのに、どうしてこんなにも「違う」と感じるのだろう。何も言えないでいる総士に「なぁ、やっぱり手、つなぐのはだめか?」と一騎がハの字に眉を下げて言った。落ち着いているように見えて、一騎はずっとそわそわしているのだろう。総士が「違う」と感じているように、一騎も面会室で話していたときとは違う何かに、落ち着かない気持ちでいるのかもしれなかった。弱った子犬のような雰囲気をかもし出す一騎に負けそうになったが、いや、ここは外だ、誰に見られるかわからないのに、と、総士は自分に言い聞かせて「だめだ」と答えた。そのかわり、「お前の家に、帰った後なら」と付け足せば、榛色の瞳がうれしそうに細められる。
 ――落ち着かないのは、こっちのほうだ。
 二年前と同じようで、同じでない、一騎の表情や言葉に戸惑い、焦る。総士はそう思いながら、一騎より先に歩き出した。
 しばらく進むと、一騎が総士に追いついて来て、「商店街に寄って帰ろう」と袖を引く。
「真っ直ぐ帰るんじゃなかったのか?」
「たぶん、冷蔵庫のなか空っぽだと思うんだ。俺がいないあいだ、父さん、何も作っていなかっただろうし。それにお前、俺の料理を食べたかったんだろう?」
「な、ん…」
 何でそれを知っているんだ、と言いかけた総士より先に「え、だって遠見先生に言ったんだろ」と一騎が答える。戻って来て真っ先に、一騎の作ったものが食べたい、と言ったあのときの自分の醜態を思い出して、総士は頬に熱が上がるのを感じる。総士について公開されているデータは、彼が人であること、皆城総士と同一の存在であることを示すためのデータが大半だ。アルヴィス上層部の、「皆城総士として受け入れる」という姿勢を示すためでもあるし、島民の不安を払拭するためでもある。そのためか、これは必要なんだろうかと思えるようなデータも、スタッフの所感の中にまじえてあることがあった。思えば、千鶴の報告書の中に、自分の答えたことが載っていたような気が、しないでも、ない。
「お前、まさか、全部読んでいるのか」
 一騎はデータを読み、選び、処理することはできるが、好きではないはずだ。アルヴィスで整備訓練などを行うときも、できないわけではないのに、強いられなければできるだけ避けたい、といったようすだった。総士に関して公開されているデータは少なくない。もちろん一騎にも端末は支給されているし、だからこそ総士外泊の稟議書も作れたのだが、総士のデータに目を通しているとは思っていなかったのだ。
「本当は…、お前のことを覗くみたいで、なんとなく嫌だった。でも、総士が総士だって、ちゃんと帰って来たんだって、島の人にわかってもらうためのデータだろ。難しいことも、いろんな数値も、俺にはよくわからない。あれが、総士は総士なんだって決めるものだとも思いたくない。俺にとって、あんなのがなくても、総士は総士だ。たけど、あれはきっと、お前の覚悟だと思ったから」
 だから見たいと思ったんだ、と、そう一騎は言った。
「一騎…」
「前だったら、そういうこと思わなかったかもしれない。でも来主と話して、自分の考えをただ相手に言うだけじゃだめなんだって思った。自分の思いばかり、押し付けるんじゃ、だめなんだって。お前が何を考えているのか、お前がどういう気持ちで島の人と向き合おうとしているのか、俺は知りたかったんだ」
 操に対して、一騎が根気強く語り続け、問い続けた姿を総士は知っている。総士が彼に何を望み、島に何を託したのか、それを知ろうと、伝えようと、自分のこころを相手に開き言葉を尽くし続けた一騎の姿を。互いのことを思いながらもすれ違っていたころの一騎とはもう違う。知らない間に一騎が成長してしまったような感覚にとらわれ、総士は、うれしいのに、さみしいような気持ちになった。
 だからなのか、「ほら、行こう」と一騎がさりげなく総士の手を握っても、総士はもうだめだとは言えなかった。

 そして、商店街に入るなり、一騎と総士に向けられたのは好奇の目でも不安な声でもなく、驚きと、あたたかな声だった。
「おかえり、総士!」
「おう一騎、もうからだは良いのか?」
「やっぱりあんたら揃ってると安心するよ」
 夕飯の食材買いに来たのかい、何にするんだ、豪華にしなきゃいけないだろう、などとあちこちから声が飛ぶ。ぽかんとする総士とは違い、一騎は「今夜はカレーにするんだ」「すき焼きじゃないのか?」「馬鹿だねぇ、あのフェストゥムが先に一騎カレー食っちまったんだから、総士だって食いたいだろ」「よし、じゃあ特別に今日一番いい肉を値引きしてやろう」「いいのか?ありがとう」などと、楽しそうに会話をしててきぱきと食材を買っている。
 ――もっと、拒絶されると、思っていたのか、僕は。
 そうだ、思っていた。受け入れられるはずがない、と。いくら島がフェストゥムとの共存を目指していても、ミールとの対話の術を手に入れても、フェストゥムが「敵」として存在している限り、総士の存在は不安視されるに違いないと思っていた。もちろん、こうして話しかけて来てくれる人々がすべてではないだろう。どこかで総士のことをおそろしいと思う人だって、いるだろう。けれど、今ここにいる人々からは、確かに総士がここにいることを受け入れ、喜んでくれているのが伝わってくる。
「なぁ総士、付け合わせ、何がいい?楽園だとだいたいポテトサラダなんだけど、お前の食べたいもの――」
 肉屋を離れて八百屋に向かいかけた一騎が、総士を振り返り、しばし沈黙してから、顔を覗き込む。
「どうかしたのか?」
「……なんでも、ない」
 こういうところばかり鋭い一騎から目を逸らしながら握った指先に力を込めて、鼻の奥がつんとしたのを誤魔化した。

        *

 それからどの店でもおまけだと言って何がしかをもらったり、安くしてもらったり、気づけば一騎と総士の持っている買い物袋はぱんぱんになっていた。
 アルヴィスを出たのは昼過ぎだったが、一騎の家に着く頃には少しずつ日が傾きかけていた。秋になり、日が短くなっているのだろう。
 重たい荷物を持って少し息を切らせた総士が、家の前の階段を上りきり追いつくのを待って、一騎が鍵のかかっていない玄関の扉を開ける。「入れよ」と言われるままに敷居を越えると、ふわん、と香ったのはひどく懐かしい木と畳のにおいだった。
 三週間も一騎がいなかったからだろう。以前は感じていた、食事を作った後の残り香は消えている。史彦も今はアルヴィスに詰めていることが多いせいか、どことなく家の中は冷えていた。それでも、二年ぶりに馴染んだ香りと空気に包まれて、総士は無意識に強張っていたからだが解けていくような感覚にほっと息を吐いた。自分の家ではないというのに、不思議だ。一騎と向き合い言葉を交わすようになってから、総士が北極へ連れ去られるまでの短いあいだ、片手で足りる数ほどしかここへは来ていないはずなのに。
「あ…父さん、掃除も喚起もろくにしてないな…埃っぽくないか?大丈夫か?」
「問題ない。だが、窓を開けるなら手伝おう。お前は食材を片付けなければいけないだろう?」
「ああ。じゃあ廊下と店のほう、頼んでいいか?」
「わかった」
 実際に訪れるのが二年ぶりとは言え、勝手知ったる家だ。間取りは把握している。
 一騎に買い物袋を任せ、総士は廊下の窓を開けに行く。真壁家の居住スペースは二階のみだ。突き当りを階下に降りれば、史彦が営む器屋の店舗と工房になっている。階段を降りてゆくと、薄暗くぼんやりとした工房に、土のにおいがしていた。店の窓を開ければいくらか日差しが入り込み、明るくなる。
 一騎いわく「本当に客が入っているのかわからない」店に並べられた食器は、記憶にあるものと少し違っていた。あのころ総士が目にしていたのは、一体何のための器なのかわからないような、いわゆる、とても、斬新で芸術的な――いや、要するに食器なのか疑わしい代物ばかりだった。しかし今並べられているものは、きちんと食器の形を成している。
 ここにも、二年という年月を感じた。一騎だけではない。島の景色は変わらなくても、少しずつ、みんな、どこか、変わっている。仲間たちだってそうだった。剣司も真矢も咲良もカノンも後輩たちもみな、変わっている。それだけの月日が経ったのだ。
 ――僕だけが、取り残されている。
 不意に浮かんだ寂寥と焦りに、胸がざわついた。
 橙色のひかりが差し込む店内をぼんやり見渡していた総士の耳に、とん、とん、と階段を降りる足音が聞こえる。
「総士、食材片付けたから、とりあえずお茶でも飲むか?」
 ひょこりと顔を出した一騎に、意識を引き戻される。ああ、と頷いて店から工房に入った総士はふと、ろくろの周りに置いてある歪な器に目をやった。史彦の、失敗作だろうか。そう思って見ていると、気づいたらしい一騎が「ああ…」と苦笑する。
「自分でちゃんと見たのは初めてだけど、やっぱり歪んでるんだな」
「…これは、お前が作ったのか?」
「うん。見えていなかったから、そんな風だって、知らなかったけど。父さんが『まだまだだな』って言っていたから、うまくできていないのはわかってた」
 一騎は自分の作ったもののうち、ひとつを手に取り「父さんはもう歪まないんだ」と言った。
「店の、見たか?」
「司令の器か」
「ああ。ちゃんとした形、していただろう。父さんのが昔あんなに歪だったのは…、俺がこんな風にしか作れないのは、こいつが、土でできているからなんだ」
「つ、ち…」

 土――すなわち珪素。
 それは、敵を――フェストゥムを構成する物質の名前。

 どくんと心臓が鳴った。一騎が「でも」と次の言葉を発するより前に、総士の口を突いて言葉が出る。
「――今の僕と、同じものだ」
 みっともないほど震えた声だった。怒りでも悲しみでもない。ただ平坦で冷めていて鋭くて、そのくせ震えた声だった。きん、と、一切の空気の流れが止まるような感覚がした。
 しまった、と思った。自分の出した声が脳内で反響し、一瞬で上がった熱が、一瞬で冷めていく。
 こんなことを言うつもりじゃなかった。一体どうしたというんだ。さっきまであんなに、こころが温かかったのに。浮ついたきもちでいたのに。どうして。
 ただこわかったのだ。歪んだ器。一騎が作ったもの。歪む理由。それが土であるということなら、珪素だからだというのなら、敵の、憎いものを構成する物質だからだというのならば、一騎にとって、今の、僕は、もう。

 ――僕はどこにもいない。

 ぞくりと背筋を冷たいものがはしる。抑え込んでいた恐怖が膨れ上がる。視界が真っ黒に染まる。

 ――どこにもいないなら、お前と、ひとつになりたい。

 かつての声が遠くからひたひたと近づいて来て、総士の耳元でささやく。
 ああやっぱり、僕は。
「そうし」
 強い声で呼ばれた。
 体温の高い手が痛いほどに総士の腕をつかむ。
 ぱきん、と、微かな音がした。
 はっとして手元を見下ろせば、一騎が総士のてのひらを握っている。その隙間から、粉々になった緑色の欠片がこぼれていた。
「総士、お前は、何がこわいんだ?」
 それは一騎が知りたいと望んでいたものだった。お前が何をこわがっているのか知りたい。そう一騎は言っていた。
 一騎がつかんでいる総士の腕は人間のものではない。少なくとも成分上は、一騎が歪ませた器と同じものだ。けれど総士の手は器のように潰れることも、歪むこともなくそこにある。強い力は破壊するためではなく、ただ繋ぎとめようとするものだからだ。
 一騎のまっすぐな目が総士を射抜いていた。



「総士」
 一騎はもう一度呼びかけた。総士はひどく傷ついたような顔をしている。自分で発した言葉に自分で傷ついて、一騎の反応をおそれている。
 総士のてのひらから零れ落ちたのは、緑色の結晶だった。他者を同化するためのもの。総士のてのひらから生まれたそれは、しかし、一騎が触れれば簡単に砕けた。幼いころの記憶がよみがえる。ひとつになろう、と、そう言った総士と、拒絶した自分。動揺し、震えている総士もきっと、同じことを思い出しているのだろう。
 さっきまですごく幸せそうだったのに、と、一騎は思った。
 アルヴィスの隔離室から出ようとしなかった総士は、決して外に出たくなかったわけではないのだ。島の景色を見て瞳を細め、島の人々と触れ合って頬をゆるませる総士を見て、もっと早く連れ出せばよかったと一騎は後悔した。島の中に総士がいる。秋のにおい、日常の風景、変わらない空と海のあいだに総士がいる。それは一騎が見たかった、島のあるべき日常の姿だった。
 視力が衰えていくのを感じていたとき、光を失うのだと思ったとき、どれほど平気だと言い聞かせていてもこわかった。それと同時に、例え総士が帰って来ても、この視界に彼の姿を映すことができないのかと思うと、かなしくてたまらなかった。
 でも、今は見える。鮮やかで色づいた島の景色も、変わらない総士の姿も。
 いっぺんに一騎の世界は元通りになった。失われていた二年間が嘘のように、島の大気が瑞々しくからだを満たすようだった。
 ひどくそわそわして、総士に触れていたくて、少しも離れたくなくて、あの隔離室のガラスがないと自分はこんなにも堪え性がなくなってしまうのだと呆れた。総士が恥ずかしいと言いながらも手をつないでいてくれたから、余計に一騎は浮足立ってしまったのだ。
 不安に思っていた島の人々の反応も、おそれていたようなものではなく、総士に対して変わらない優しさを向けてくれた。よかった。ほら、総士は帰って来たんだ。ちゃんとここにいるんだ。そう、思っていたのに。
 つかんだ総士の腕は細い。もともと細かったが、傾いた陽のさしこむ薄暗い工房で見ると、ひどく頼りなく白くぼんやりとしている。
 ――これが、土でできているなんて、嘘だ。
 一騎はそう思い、そしてすぐに、いや、そうじゃない、と否定した。確かに今の総士は、一騎とまったく同じ人間ではないのだろう。総士が言うのだから、その通り、彼のからだはその大部分が珪素でできているのだろう。けれど、だから、なんだと言うのか。
 一騎だって二度、無の世界へ引きずり込まれようとした。ここにある肉体の成分が変わっていなくても、誰がそっくりそのまま、昔の、何も知らなかったころの一騎と同じだと証明できるのか。
 自分の存在が不安定になって、真矢を同化しようと思ったことだってあった。てのひらから結晶が生まれた、あの瞬間の自分に対する恐怖は今でも覚えている。
 人間であることの条件とは、なんだ。人類軍で捕虜になり、あらゆる検査を受けたときに何度も一騎は言われた。敵の因子を取り込んで遺伝子を操作するなんて信じられない、禁忌だ、こんなの人間じゃない。それでも一騎は人間だ。ここに生きている。傷つきもするし涙も出るし、うれしければ浮かれるし笑顔になる。――いや、人間かどうかなんて関係ない。来主操だってそうだったじゃないか。おいしいと彼は言った。うれしいと笑った。かなしいと泣いた。言葉を交わし、こころを開きあい、互いを大切なものだと確かめ合うことができた存在。それこそが、彼のいたあかしだ。
 それならば、人間だとかフェストゥムだとか、何で肉体ができているかなんて、関係ない。
 総士が総士であるという、あかしがあれば。
 ――そうか、お前は、だから、こわかったのか。
 一騎は揺れる灰色の瞳を見つめる。ふたつの目が一騎の視線を受け止めている。逸らされてはいない。
「……一騎、頼む、離してくれ」
 それは懇願だった。しかし叶えてはやれない。
「僕は、また、お前を――」
「大丈夫だよ、総士」
「っ、何を根拠に…!やはり僕は自由が許されるべきではなかった、お前を同化しようとするなんて、僕は、」
「根拠なんてない」
 「でも」と言いながら一騎は総士の腕を引いた。どれだけ総士が抵抗しても、力はいつだって一騎のほうが上だった。二年前のまま時を止めているからだは、一騎の腕のなかにすんなりおさまる。あたたかな体温。覚えのあるにおい。一騎はそれを強く抱きしめた。
「お前は、しないよ。お前はもう、俺とひとつになりたいなんて、思っていないだろ。だってお前は、俺のいるところへ、帰って来てくれたんだから」
 帰ることができるのは、待つことができるのは、別々の存在だからだ。ちがうものだから、互いを求めることもできる。一騎と総士が求めているのはひとつになることでは、もう、ない。
 いっしょにいたい。
 ふれていたい。
 べつべつだから、望むことだ。
「お前は、お前がいなくなるのが、こわかったんだな」
 やっとわかった。総士がおそれていたのは、皆城総士という存在を失うことだ。己の存在を自分自身で否定してしまうことだ。ここにいる、ここにいたいと思いながら、ここにいてはいけないと思う自分もいる。かつての一騎と同じように、ちぐはぐな想いを抱えて苦しんでいたのだ。そして総士は知っていた。自分を否定してしまうことが、幼いころのように、一騎を同化したいと願うことへ繋がってしまうのを。
 今は遠い記憶の中、自身の存在を見失い、ひとりぼっちで運命と真実を背負った幼い姿が脳裏に浮かんだ。あのときは、わかってやることができなかった。ただ傷つけることしか選べなかった。けれど今は、違う。
「大丈夫だよ、総士」
 あの日、総士を傷つけてしまった右手を、その傷の残る頬へと伸ばす。総士の目が見開かれていく。その目に視力が戻っていることは知っていた。肉体が再生され、視力が戻ったのに、消せたはずの傷がそこにある意味を想う。やはり、少しだけ手は震えた。でも大丈夫だ。総士の手がもう一騎を同化するためにあるのではないのと同じように、一騎の右手ももう、総士を傷つけるためにあるのではない。この手は総士を守り慈しむために、ある。
「お前は、ここにいるよ」
 左頬に指先が触れた。かつて自分がつけた傷を、ゆっくりとなぞる。引き攣れている肌、窪んだようにくっきりと刻まれた痕。はじめて、触れた。
「…っ」
 ひくん、と、総士が肩を震わせて反射的に目を閉じる。そうすると、閉じられた瞼のうえにも傷痕がはしっているのがよく見えた。がむしゃらな子どもが、鋭い枝の切っ先を突きたてたのだから、深い傷が残るのは当たり前だ。きっと、とても、痛かっただろう。それでも総士はこれを自分の存在のあかしにしてくれた。ここへ、残してくれた。
 一騎にとって罪のあかしであったそれに、今はただ、触れたい。触れて、慈しんで、知らしめたい。お前は、この傷を残してくれたお前は、皆城総士以外の何者でもない。
 気づけば一騎は、総士の傷痕に口づけていた。まるでそこから今もなお流れる血潮を癒すようにくちびるをすべらせて、ゆっくりと離れる。
 薄く総士が瞳を開いた。途端、その淵から零れ落ちるものが見える。
「えっ」
「…っ」
 一騎は慌てた。夢から醒めたように、はっとなる。総士が、泣いている。
「ご、ごめん、どうしたんだ? 痛かったのか?」
「…ち…、ち、がう…」
 総士が泣くのを見るなんて一体いつぶりかわからない。それくらいずっとずっと前のことだ。だから余計に一騎は慌てる。何かをしてしまったんだろうかと動揺しながらからだを離そうとすると、総士のほうが、一騎の肩に額を押し付けて来た。亜麻色の髪が一騎の頬に触れ、擦り寄るような仕草に、一騎は思わず固まった。
「ちがう…、ちがうんだ、かずき、ぼくは、…ぼくは」
 背中に回った総士の指が縋るように一騎のシャツをつかんでいる。いつだって理路整然とした言葉を発する総士が、涙に震える声でたどたどしく、言うべき言葉を探している。
「ぼくは…、ここに、いるのか」
「いる!いるよ、総士…!」
 頼りない声を聞いた瞬間、一騎は強く叫んでいた。いるよ、ちゃんとここにいる。総士。総士。何度もその名前を呼ぶ。返るはずはないと知りながら、ぼやけたモノクロの世界で呼んでいたこの二年間とは違う。一騎の声は総士に届く。
「総士…、お前はここにいるよ」
 こころの奥へ、総士をこわがらせているものが生まれるその場所へ、届くようにと一騎は繰り返す。
 抱きしめたからだの震えがおさまるまで、ずっとずっと、繰り返した。

        *

 ふれてほしい。
 そう感じていた理由がやっとわかった。
 一騎が与えてくれた傷。総士が求めたあかし。それは間違いなくここにあると、総士は確かめたかったのだ。
 みっともなく感情があふれ出して決壊し、ガラス越しに再会したときの一騎のように泣き続ける総士を、一騎はずっとなだめるように抱きしめ、ときに傷痕に触れて、名前を呼んでくれた。本当にここにいる自分は「自分」なのかと疑うこころの奥底まで一騎の声は染み込んで、隠していた、抑えていた恐怖をほどいて溶かしていった。
 傷痕に一騎の指先が触れるたび、なんとも言えないきもちよさと安堵がこころを満たし、総士は涙がおさまったあとも、自分の頬に触れる一騎のてのひらに、ぼんやりとすり寄ったままでいた。一騎にすべてをさらけ出してしまった恥ずかしさや申し訳なさはあるが、今更だと思う自分もいる。一騎に対してだけだ。一騎にだけ、こんな風になってしまう。そう思うと安心する。
 総士が総士を信じられなくても、一騎が総士を信じてくれるのなら、ここにいる総士は「皆城総士」以外の何者でもない。一騎に存在を定義され、一騎に存在を求められるもの。それ以上のあかしはない。
「…すまなかった」
「うん?」
 何がだ、というように一騎は総士の髪を撫でる手をそのままに首を傾げる。
「お前を同化しようしたことと…、お前に、迷惑をかけたことだ」
「迷惑だなんて思ってない。お前がこういう風に、思っていること、こわがっていること、全部、見せてくれるのはうれしい」
 至近距離でとろけるように微笑まれて、総士は思わず見入った。触れたところから伝わる体温、心音、優しい声。こんな風だっただろうか、一騎は。すべてを委ねてしまいたくなる、こんな。
 ついほどけた口からは、言葉がぽろぽろと零れだす。
「…一騎、お前は、僕のデータを、見たんだろう」
「うん」
「視力が、戻っていることも」
「知ってる」
「…では…、僕がフェストゥムと同じような力を得たことも…、知っているんだろう」
「知ってるよ」
 一騎は総士の髪をゆっくり梳くように撫でる。それを心地よく感じて目を細めながら、総士は自分の右手を見下ろした。
「こうして人の形をしていても、同化現象に接すれば、僕のからだは彼らと同じ色や形になる。周期は不明だが、検査のあいだ、何度か瞳の色も変色した。同化欲求については、確かに、無闇に発現をしないだけで、以前からあったものだ。けれど僕は前と同じ僕ではない。…それが、こわかった。どれほど僕が自分を制御しても、島や、…お前を、傷つけてしまうのではないか……拒絶、されるのではないかと」
 みずからを隔離し、危険なものだと思い込もうとした。その一方で、拒絶されたくない、皆城総士としてここに存在していたいという強い思いがあった。相反する想いは総士のなかで抗えない恐怖となり、島へ、本当の意味で帰ることを拒ませた。
 いつまでたっても堂々巡りだ。それはわかっていた。わかっていても、何もできなかった。
 一騎が、こうして連れ出して、触れてくれるまでは。
「お前が…僕を証明してくれる。いつだって」
 ありがとう。
 小さく告げると、一騎が「俺も」と言いながら総士の瞳を覗き込んだ。
「俺もだよ。お前がいないあいだ、ずっと俺は不安だった。いなくなったみんなや、お前を置いて、ここで生きている俺は何なんだろうって。本当にここにいるのか、ここにいるのは、間違っているんじゃないか…、でも、ここにいたい、ここでお前を待っていたい、って、そんなふうに、思っていた。このまま、目が見えなくなるのもこわかった。お前が帰って来る場所を、島を守れるならどうなってもいいなんて思いながら戦っていたときだって、本当は消えたくなかったし、お前に会えないのは、すごく嫌だって思っていたんだ。ぐちゃぐちゃだろ。思っていることが真反対で、苦しくて、かなしくて、つらかった。でも…でも、お前は帰って来てくれた」
「一騎…、」
「お前がここにいる。だから、俺も、ここにいる」
 夕焼けに似た、榛色の瞳の中に、はっきりと総士の姿が映っていた。きっと総士の瞳にも、一騎の姿は映っているだろう。
 人は、本当には、自分の姿を見ることはできない。自分の瞳に自分を映すことは叶わないのだ。だから疑う。自分は本当にいるのか、と。けれど、一騎には総士がいて、総士には一騎がいる。例え自分の存在が自分自身で確認できなくても、証明できなくても、互いの瞳には映っている。
 そこにいる。
 ここに、いる。
 一騎の瞳のなかにとらわれているうちに、静かにそれが閉じられた。あ、と、思う間もなく、薄いくちびるが総士のそれに触れている。傷痕をなぞったのと同じ温度がやわらかく触れて、押し付けられる。なんだろう。なにをしているんだろう。そう思いながら、総士は目を細める。ここちよかった。ひとつになろう、と、そう言ったあのときより、傷つけあったあのときより、ずっとそばにいる気がした。別々のものなのに――別々のものだから、触れることができる。感じられる温度がある。重なって、溶けていく。完全に同じものになることなどできない。でもここに、互いがいる。それを思い知り、こころが満たされる。
 ただただ押し付け、くっつけあうだけの触れ合いだった。一騎が――あるいは総士が、満足するまでずっと繰り返される。
「……ふ、ぁ…」
「ん……」
 最後に少しだけ、開いたくちびるのあいだから入ってきた一騎の舌がぺろりと総士のそれを舐めていく。ぞわりと背筋を這ったものがなにかわからないまま、ただ溶けるような、ぬるま湯にひたされたような心地よさに、くたりと一騎にもたれかかった。
 少しだけ早くなった心音が聞こえる。
 くちびるを触れ合わせることが、一体、何の意味を持つのかはわからなかった。本来は恋人同士がするものではないだろうか。頭の中で冷静さを取り戻しつつある自分がそう言ったが、だからといって、一騎と総士のあいだで行ってはいけないことだとも思えなかった。触れ合いはあまりに自然で、当たり前のようにふたりに馴染んだからだ。手をつないだときと同じで、だめか?嫌か?と訊かれたら、だめでも嫌でもない。
 一騎の言葉で、触れる温度で、失っていた肉体が、本当に取り戻されていくような気がした。
 泣き腫らした瞼が熱く重くて、つい総士はそのまま微睡みかける。だめだ。夕飯のころには史彦が帰って来る。そのとき、どんな顔をしたらいいのか、考えねば。それに、一応、同化欲求を起こしてしまったことは報告すべきだ。今の総士の心情からすれば、だからといって隔離を続けてほしいとか、もっと検査をすべきだなどと言うつもりはないが、隠すのは良くない。
 そんなことをつらつら考えている総士に対し、一騎はまるで、もうそのまま眠っていていいと言いたげに、頭を撫でるのをやめない。
 だからだ。だから仕方ない。瞼が重く、落ちていくのは。
「お前は、ここにいるよ、総士」
 何度も告げられた言葉が、いっとう柔らかく、優しく、耳に触れた。

        *

 総士は夢を見ていた。

 ――今日の空も綺麗だね。
 無邪気にはしゃいだ声がする。彼はどんな空でも綺麗だと言った。青い空も、薄紫の空も、橙色の空も、灰色の空でも。
 ――君の島の空も見たよ。とっても綺麗だった。それから、君のいた場所にもたくさん行った。一騎はとても優しくて、一騎カレーはすごくおいしかった。あれが、おいしいってことなんだね。
 また食べたいなぁ、と、彼は笑う。
 痛くて苦しかったという思いも確かに伝わってくるのに、彼は本当にうれしそうに笑った。
 そうだろう、そうだったろう。
 僕の故郷はうつくしく、やさしい。お前が好きになってくれたのならば、うれしい。お前が島に訪れ、希望を見出し、一騎に出逢ってくれて…本当にうれしかったんだ――来主。ありがとう。僕を、島を、守ってくれて。出逢ってくれて、ありがとう。
 ――また会おうね、総士。
 俺はここにいた。
 君はここにいる。
 だからきっと、また会えるよ。
 

 青い空の向こうに、きんいろのひかりが遠ざかっていく。そのなかで確かに彼は、優しい笑みを浮かべていた。



        
 ――ぼんやりと、意識が浮遊していた。
トントン、と何かを刻む音、ぐつぐつと何かを煮込む音が聞こえる。時折、ぎ、ぎ、と古い床板の上を細かく移動しているような音もする。次いでスパイスのような香りが鼻腔を擽って、きゅ、と、胃が空腹を訴えた。けれどまだ心地よいまどろみのなかにいたくて、身を縮こまらせる。息を吸えば、スパイスの香りにかき消されそうな、けれど覚えのある畳のにおいがする。ほう、と、安堵の息をもらしながら、からだを包んでいるあたたかなものに潜りこんだ。
 こんな風に、安らいだきもちでまどろむのは、いつぶりだろう。精神だけで存在をつないでいたときは眠るという行為などしようもなかったし、常に緊張と恐怖のなかにいたような気がする。そう、ただ、彼が、操がそばにいて、楽しげに話してくるときだけは違っていた。だから彼は総士にとって救いだった。
 島へ帰って来てからは、睡眠は取っていたし、ぐっすり眠ったという自覚もある。けれどこんな風に、全身を委ねてしまえるような安らぎは、なかった。
 きもちがいい。
 しあわせだ。
 もっとこうしていたい。
 そう、意識を再び手放しかけたところで。
「一騎、米が炊けたぞ」
「あ、わかった、ありがとう父さん」
「……っ?!」
 目を見開いた総士は、一気に覚醒し、がばりと身を起こした。その拍子に、目の上に置かれていたのであろうタオルが畳の上に落ちる。
「あ、総士、起きたのか?」
 総士が寝転んでいたのは居間の畳の上だった。一体いつの間に、運ばれていたんだ。一騎の体温のここちよさについ眠り込んでしまったような記憶はある。あれから、どれだけ時間が過ぎているのか。視線の先には、すっかり日の暮れた空の色を映した窓と、それを背景に、きょとんとしている一騎と史彦の姿がある。一騎の手には包丁があって、史彦の手にはしゃもじがあった。混乱する。今何時で、自分は、何を。
「ぼ、僕は、どれだけ寝て…」
 一騎は、何でそんなことを気にするんだろうと言いたげな呑気な声で「え?ああ、二時間くらいかな」と時計を見やる。総士はしゃもじを手にした史彦に視線を向けて「す、すみません」と慌てる。
「お邪魔しておきながら何もせずに…」
「気にすることはない。君は客人なんだから、ゆっくりしていなさい。久しぶりに外に出て疲れただろう」
 目を細めた史彦はそれ以上は何も言わず、「一騎、米を盛っていいか」と言いながら炊飯器を開けた。
 総士は手持無沙汰になってしまう。ふと自分の格好を見下ろせば、一騎がかけてくれたのであろうタオルケットと、畳の上に落ちたタオルが目に入る。タオルは濡らされていて、すでにぬるくなっていたが、おそらくは泣き腫らした目を冷やすために用意してくれたのだろう。
 きっと、真っ赤な目は誤魔化せていないのだろうが、史彦が何も言わないのだから、気づかれていないふりをしようと決める。
 タオルケットを畳み、出来上がったカレーが運ばれてくるのを、総士は大人しく待った。
 卓袱台の上にカレーと、付け合わせのサラダが並ぶ。具だくさんのカレーが白米の上にたっぷりとかけられていて、見た目からしておいしそうだ。そういえば、ぼんやりとではあったけれど、一騎とクロッシングしていたときに見ていたのはこんな風だった気がする。やっと自分の目で見て、感じられることに、頬がゆるんだ。
「いただきます」
 三人で一緒に手を合わせて、スプーンを持った。一口ふくんで咀嚼して、総士は思わず目を見開く。
「…おいしい」
 こころから出た言葉だった。合宿でみんなで作ったカレーもおいしかった。けれど、これはまた別格だ。辛すぎない程度にスパイスが効いていて、甘みと深みもある。それに何より、一騎が手ずから作ったものだと思うと、感じるおいしさは上乗せされる。
 一騎は「よかった」と笑みを深めた。
「来主も、おいしそうに食べてくれたんだ。だからお前にも早く食べさせてやりたかった」
 一騎の言葉に、まどろみのなかで見た夢がよみがえった。
 また食べたいな、と、笑う彼の顔が浮かぶ。
「…彼はずっと…、僕の知識や記憶に寄り添って、お前を見ていたから…お前と話して、料理を食べて、うれしかったと…きっと、思っている」
「うん。…また、食べさせてやりたいな」
「会えるさ、また。…僕らはここにいるのだから」
 総士の言葉に一騎は少し目を瞬かせて、そうして満足そうに、うん、と、頷いた。

 片付けは一騎と総士がして、風呂は史彦が沸かした。順番に風呂に入り、久しぶりに一騎の作ったつまみを片手に酒を飲むという史彦は居間に残った。
「一騎、先に行っていてくれ」
 ふたりで一騎の部屋に引き上げようと廊下に出たところで、総士は言った。一騎は何かを言いたげだったが、「ああ、わかった。待ってる」と大人しく先に部屋へ向かう。それを見送ってから、総士は再び居間の敷居を跨いだ。
 史彦は、一騎が風呂上がりに手際よく作っていた、チーズと醤油で椎茸を焼いたものをつまみに、徳利から酒をついでいる。一騎がつまみを作ると言ったとき、史彦がうれしそうにしていたのは、酒を飲めるからではないのだろう。一年の昏睡から覚め、総士を待っていたあいだも、目はあまり見えないながらも一騎は料理をしていた。けれど、「しょうがないなぁ。あんまり飲むなよ。まだ傷、完治してないんだろ」と苦笑しながら台所に立つ一騎は、この二年では見られなかった姿に違いなかった。
 総士が後ろ手に襖を閉じると、そこで初めて史彦は背後の総士に気づいたようで、ふと顔を振り向かせた。
「どうしたんだね?」
「司令…、僕は、今日、一騎を同化しそうになりました」
 ぱちり、と、瞬いた目が、少しだけ見開かれた。しかし、驚くでも、怒るでもなく、「だが、しなかったのだろう」と静かな声がつむがれる。
「…それでいいと、そう、思われるのですか」
 断罪されたいわけではなかった。一騎から引き離されたいわけでも。史彦がそうしないことも、なんとなくわかっていた。けれどどうしても言わずにおれなかったのは、自分の存在を疑わなかった史彦に、誠実でありたかったからだった。
 史彦は一口酒を飲んだ。
「君は一騎を同化しようとして、だが、しなかった。それがすべてだ。今も、昔も」
 言葉に含まれた意味に、総士ははっとする。そのことに触れられたのは初めてだ。いや、こころのどこかでは、わかっていた。いくら総士が黙っていても、一騎が何も言わなくても、島の人間すべてにチップが埋め込まれ、監視カメラを搭載したバードがあちこちを飛び交っているようなこの島の中で、あんな大けがをして、「ひとりで転んだ」というこどもの言い分が聡い大人に通用しないことはわかっていたのだ。だが、史彦も、ましてや公蔵も、今まであの一件に触れたことは、ない。なかった。
 罰せられなかったのは一騎だけではない。総士もだ。
 フェストゥムに近い存在となり、同化欲求を発現した総士に、大人たちは何の措置も取らなかった。
 その意味が、今になれば、わかる。
「我々はずっと、そういう風に、生きたかった。誰かを犠牲にしたり、排除したりしながら、それでも、そうしなくていい道を、ずっと探していた。…それが少しずつ叶っているのが、今だ」
 この島が生き延びるために、多くの命が失われてきた。禁忌にも手を出し、遺伝子操作やファフナー開発で多くの犠牲を生み、嘆きを生み、そのうえで今の平和は成り立っている。それを総士も知っている。他のどのこどもたちよりも、それを近くで見て来た。方針を決め、指示を出し、時には親しいものを切り捨てて来たのが、自分の父親であったからだ。それでも彼らが、大人たちがそうしてきたのは、生きるためだった。自分たちが、こどもたちが、より長く、生きて、希望を、見つけるために。
 かつての島であったならば、総士は敵として切り捨てられていたかもしれない。
 だが今は、そうしなくてもよい環境がある。道が見えている。希望がある。それこそ、一騎が、操が、美羽が――総士が託したものが。
「君が帰って来てくれて、この島に、またひとつ、共生の道が拓けた。それがアルヴィス司令としての私の考えだ。君があの部屋を出るために必要だったのは、君が、君自身を認めるということだった。それはどうやら、かなったのだろう」
 史彦の瞳が細められ、不意に表情がゆるんだ。
「一騎の父親として……皆城の友人として、息子である君がここにいてくれることを、うれしいと思っている」
 おかえり、総士くん。
 呼び声はやわらかい。母親に似ている一騎の、しかし、あの何とも柔らかく優しげな声音は、このひとに育てられたからなのだとわかるような、そんな声だった。
「…昔…、あなたのことを、甘い人だと、思っていました」
「そうか」
「…やはり今も、…そう思います」
 そうか、と、史彦は微笑む。総士は、緩みきった涙腺から湧き上がってくるものが見えないように、ありがとうございます、と、そう告げるのでせいいっぱいだった。