1 葬送
ひとが死ぬというのは、いなくなる、ということだ。漠然とそんなふうに思っていた。
総士は、ひとがどんなふうに死ぬのか知らない。誰かの死を弔ったこともない。かつていた島で、母は病を治してまわっていた――そういうふうに装って生活していたけれど、あの島に「ひと」はほとんど存在していなくて、だから、死ぬことだってなかった。
僕の両親はエスペラントのせいで死んだ、と、マリスだけが、「死」をよく口にした。
それは、理不尽に奪われたものとしての「死」だった。マリスの言葉にはいつも憤りが滲んでいて、大切なものを奪われるのは、ころされる、ということは、怒りと結びつくものなのだと、思っていた。――思っていたけれど、実際に目の前で乙姫をころされるまで、総士はそれを、知らなかったのだ。
奪われるのはかなしい。つらい。くるしい。――憎い。
怒りと同時に湧くのは憎しみだった。それはそのときの総士にとって、初めて実感をともなって知った感情だった。
乙姫を奪ったあいつも、同じ目にあわせてやりたい。乙姫と同じ目にあわせてやらなければ気がすまない。総士にとって乙姫はたいせつな存在だった。たったひとりの妹だった。そのいのちに
奪われたから奪い返し、同じ苦しみを味あわせる。それが憎しみの行きつく先だ。ころしてしまえば、憎い相手はいなくなる。奪われたたいせつないのちと同じように、存在しなくなる。怒りでふるった総士の手によって、相手に死をもたらす。
そう、総士の手が、いのちを奪うのだ。
――それを、想像できなかった。
ころしてやる。ころしてやる。ころしてやる!
きもちだけは急いて言葉だけは口を突いて出る。何度も何度も夢に見る。たとえ偽りだったと知っても、乙姫を妹だと思って暮らした日々は消えはしない。お兄ちゃんと呼ぶ声も、どこにも行かないでほしいと不安そうに見上げたひとみも、一緒に帰りたいと泣いた顔も――乙姫がそこにいて、総士を兄だと思っていた。それは嘘ではないのだ。そうでなければ、あんな、もう、ほとんど力など残っていない状態で、総士を追いかけてきたりしない。
けれど――想像できない。自分の手が、憎しみのために誰かをころすということを。
初めてファフナーに、マークニヒトに乗ったとき、たくさんの憎しみが渦巻いて総士を飲み込んだ。それは、総士の感情ではなかった。総士以外の――マークニヒトという機体がそれまで内包し続けてきた、多くのひとの憎しみだった。
おそろしかった。自分の手には負えないちからがわき上がって来て、それはどこまでも無限で、とめどなくて、すべてを消してしまえるのだと思った。憎いものを、総士を邪魔するものを、総士を傷つけるものを、すべて消してしまえる。それはこんなにもおそろしいのだと、初めて知ったのだ。
でも――それは、そんな僕は、
「相手のいのちを見ろ」
総士に戦いを教えてくれた零央はそう言う。
味方も敵も、人間もフェストゥムも、いのちはいのち。奪われるものも、奪うものも、いのち。総士にとってそれは、自分も、乙姫も、そして真壁一騎も、すべて同じいのちとして向き合えということだった。
では、憎まず、けれど許さず、忘れず、総士が総士であることを見失わず、胸にぽかりと空いた、奪われたものの居場所を、どんなふうに埋められるというのだろう――。
◇
これを着て、と、差し出されたのは着たこともない黒いスーツだった。なぜこれを着るんですか、と、
「合同葬儀」は午後一時と告げられた。それまでに着替えて家を出なければならない、ということらしい。
自室に戻る道すがら、美羽の部屋の前を通ったが、しん、としていた。これまで決して短くはない時間を過ごした家のなかは、これでまでで最も静かで――あの月はもう空にないというのに、波の音も、風の音も消え、窓の外には確かに青空が広がっているのに、太陽のひかりすらも差しこまないように思えてならなかった。
総士のことを「おかえり」と迎えてくれる人は、ここにはいない。はじめからいなかった。けれども、美羽や真矢とともにこの家の玄関をくぐったとき、「おかえりなさい」と言って迎えてくれたのは、千鶴だった。それは美羽や真矢だけでなく、総士にも向けられたものだった。すこしだけ恥ずかしくて、うれしくて、そんな自分に戸惑いもした。
けれど、もう二度と、彼女がこの家の扉を開けることも、「おかえりなさい」とほほえむこともない。
ワームスフィアに飲まれた人間も、同化現象の極限まで達した人間も、その姿を留めることなく消滅する。この島で、アクセスが可能な限りデータを閲覧した総士は、それを知識として得ている。
真壁一騎の手によって消えた乙姫も、結晶となって砕け散り、跡形も残らなかった。総士の記憶のなかには、彼女とつないだ手のぬくもりは残っているけれど、手にできるかたちとして、彼女がそこにいた、という証は、何もない。
真矢や美羽がいま感じている喪失感は、それに似ているのだろう、と、総士は思う。似ているけれど、同じではない。同じではないから、想像することしかできない。――彼女たちに何をすればいいのか、どう声をかければいいのか、わからない。
総士は今までこんなふうに、身近な誰かの大切なひとが喪われる経験をしたことが、ないのだ。
慣れないシャツを羽織り、ボタンをとめて、ネクタイを手に取ったところで、総士は、あ、と、ちいさく声を出した。ネクタイを見たことはあるが、自分で結んだことはなかったのだ。結び方がわからない。真矢や美羽に聞きに行くのは憚られた。今はなるべく彼女たちの手を、煩わせたくはない。
総士は端末を操作して、アーカイブにアクセスする。ネクタイの結び方はすぐに出てきて安心したが、実際にやってみるのは、簡単ではなかった。説明に添えられている絵の通りにはうまくいかない。何度も失敗して、苛立ち、そのせいでよけいに指がうまく動かず、「ああもう!」と、ベッドに身を投げ出した。
悔しくて――かなしくて、じわりと目じりに熱いものが浮かんでくる。
ああそうだ――かなしいのだ。
真矢や美羽のように、千鶴とは家族ではない。ほんのわずかな時間を共にしたに過ぎない。この島の戦士を作ったひと。戦うちからを与えてくれたひと。憎まれることは覚悟していると言ったそのひとに、総士は感謝した。
確かに、彼女が与えたちからは多くのものを犠牲にしたのだろう。けれど、彼女がいなければ、総士は、人類は、もうここにいなかった。
それに千鶴はとても、やさしい、ひとだった。
たとえ多くの時間を過ごしたわけではなくても、向けられたほほえみも、いつもきれいに整えられて手渡された衣服も、あたたかな食事も、扉を開ければ灯されていたあかりも、すべて、総士にとって、この島に居場所はないと思っていた総士にとって、たしかな
――ゆるせない、と、そう思った。
かなしみは、怒りや憎しみに結びつく。
――だけど、その怒りに流されるな。憎しみに足を取られるな。感情が僕を支配するのではない。僕が、僕の感情を、コントロールするのだ。それを総士はこの島で教わった。
大きく息を吐く。肺のなかの空気がなくなるくらいに吐き出して、もういちど、今度はいっぱいになるくらい吸い込む。
ゆっくり身を起こして、ぐいっと目じりに残ったしずくを拭い去り、総士はなるべくゆっくりと、黒いネクタイを結ぶ。黒は闇だ。夜の色だ。それは、千鶴がいつも纏っていたあの白とは正反対で、さみしさを表す色なのだ、と、総士は、思った。
「……ゆがんでる」
「へ?」
家を出る時間になり、階下に降りた総士に、真矢がぽつりとつぶやいた。避ける間もなく、白い両手が、総士の首元へ伸びる。わずかな衣擦れの音とともにほどかれたネクタイを、真矢の指が迷いなく結び直した。あまりにも手際が良くて、総士はきょとんと目をまたたかせる。思わず「すごい」とつぶやくと、「よく、見てたから」と真矢が言った。その意味を問うより先に、「行くわよ」と言って、真矢は黒い服と揃いの黒い靴を履いて玄関の扉を開ける。
よく見てた、というのは、誰を、だろう。
このひとたちは、こうして誰かを喪うたび、黒を纏い、葬儀へ向かったのだ。幾度も――きりなく。
戦い方と同じように、弔い方も、遺ってゆく。伝えられてゆく。この島では。
◇
葬儀場にずらりと並んだ写真は、みなが同じような姿、表情で写っていた。すこし前の夜に鈴村神社で見たものと変わらない。こういった写真を「遺影」と言うのだと、総士はあの夜に知った。
亡くなったひとびとは姿もかたちも遺らない。だからこうして生きているうちに写真を撮り、葬儀の際には並べるのだ。そして、犠牲になった人々がいたことを忘れないために、この島のひとたちはずっと、あの神社に写真をかけ続けている。
弔いにおとずれたひとびとは、白い花を手にして、祭壇のうえに置いていく。手を合わせるもの、目を伏せるもの、祈るもの。死者との向き合い方はそれぞれで、総士は見よう見まねで花を置いた後、ただじっと、写真をながめた。
見たことのある顔もあれば、まったく知らない顔もある。
今回の戦闘では、出撃した部隊だけではなく、アルヴィス内部にいたひとびとに多くの犠牲が出たという。マリスがグリムリーパーのSDPを使って
つまり、精神的な支柱と司令官を奪うこと、ミールを弱体化させることで、島が降伏せざるを得ない状況に追い込もうとしたということだ。遺されたものたちはベノンの祝福を受ける――そうすれば、総士が戦ったソルダートという元人類軍の兵士たちと同じように、彼らの戦力は増強し、そのうえでアルタイルを目覚めさせることができるわけだ。
マリスたちが、アルタイルの眠る島を見つけるために必要なのだろう総士と美羽を、生かしておくのか同化するつもりなのかは、わからない。あの夜、迎えに来たと言ったマリスは、まるで総士とまた一緒に暮らせるとでも思っているような口ぶりだった。わざわざ偽物の島や家族をつくって、三年も総士と暮らしていたのだ。――美羽のための家族だとも言っていた。そう考えれば、少なくともマリス自身は総士や美羽をころそうとはしていない。
しかし、自分の意思に反して、マリスの思うように、望むように生きることが、総士たちの生を奪うことと同義だと、彼はきっと、わかっていない。
――お前の居場所は
強制的にクロッシングを受け、意識が混濁していたなかで、それでも届いたマリスの言葉が耳に残っている。わかっていない。マリスはわかっていないのだ。総士がどうしてこんなに怒っているのか。マリスを許せないのか。伝わらないことが、こんなにも悔しい。
――お前はほんとうに、こんなことがしたかったのか。
うわぁん、と、式場の端でこどもが泣いている。よく道場にも顔を出していた、フェイという女の子だ。彼女の母親であるシャオはCDCのオペレーターで、総士はこの島へ来る道中で、他のオペレーターたちと一緒に顔を合わせた。総士の知らない小さい頃の話を聞かされて、フェイとも一緒に遊んだり、夏祭りに行ったりしていたのだと言われた。結局そのころのアルバムを見ることはなかったが、この島にいたということだけは自覚できているいま、あの話も、嘘ではなかったのだろうと思う。
そして、顔を合わせたことはないが、フェイの父親は戦闘機乗りだったという。シャオの隣に並べられた写真のひとが、そうなのだろう。ふたりがともに、今回の戦闘で亡くなった。フェイは、ひとりぼっちになってしまった。
――お前だって、そうだったんじゃないのか。
エスペラントとして随行した、シュリーナガルからこの島への大行路。そのなかでマリスは両親を失った。それをマリスはかつて、エスペラントのせいだ、と、言っていた。
この島へ辿りつくため、アショーカのミールを根付かせるため、多くのエスペラントが犠牲になったという。おそらくマリスの言葉は、それを指しているのだろう。
同じなのだ。彼が奪われたいのちも、彼が奪ったいのちも。
――あんなふうに、お前だって、ひとりぼっちで、かなしくて、だから、憎むしかなかったんじゃないのか。
繰り返しだ、全部。奪われて、憎んで、奪って、それで、その先に何があるんだ。こんなことをずっと、ずっと、続けるしかないのか。
――僕なら、できること。
この世界のおとなたちが、
それはきっと、真壁一騎にだって、できないことだ。
ぐっとくちびるを噛んで、次のひとに順番を譲るため、総士は写真の前から立ち去ろうとした。ふと、その視界に、ぼんやりと壁際に立ち尽くしている美羽が映る。真矢は――、と、あたりを見回すと、彼女は零央たちとともに、まだ千鶴の写真の前で目を伏せている。今はまだ、声をかけないほうが良いだろう。そう思って、ひとりで美羽のもとへ向かう。
「……外の空気、吸うか」
「へ……」
声をかけた総士を見上げて、美羽がきょとんと目を瞬かせる。そして、うん、と、ちいさく頷いた。
一応前を向いて歩いているものの、美羽の足取りは覚束ない。真矢と同じように、美羽だって、平気なはずはなかった。家族を失ったのだ。遠見家で暮らしている総士にはわかる。この家の精神的な支柱は、千鶴だった。
昨日、千鶴を失ったと知って泣き崩れた真矢も美羽も、今まで総士の見ていた姿とはまるでちがって、頼りなくて、無防備で、それまで彼女たちを守っていた何かが弾けとんでしまったような、そんな、不安定さを感じた。怒りでも憎しみでもない、どこまでも果てのないかなしみがそこにはあった。
彼女たちがとても強いことを総士は知っている。こうして悲しみに暮れても、きっとまた立ち上がるのだろう。こうして亡き者を弔う時間があることが奇跡と呼べるくらい、状況はひっ迫したままだ。
式場を出ですぐの花壇に、すとん、と、美羽は腰かけた。そのまま脚を上げて抱え込んで、丸くなる。自分で自分を守っているみたいだな、と、思う。総士も、誰も信じられなくて、乙姫を喪ってかなしかったとき、毛布のなかに丸まって、身を縮こまらせていた。
総士は隣に腰をおろし、しばらく無言で空を見上げた。
真っ赤な月は見えない。真壁一騎の力によって、マレスペロの絶対停止領域は一時的に霧散した。風と波の音がかすかに聞こえてくる。亡くなったひとを弔うということが初めてでよくわからないけれど、千鶴を見送る日が、風も音も光もない、そんなさみしい日ではなくてよかった、と、思う。
――不思議だ、そんなふうに、思うなんて。
弔う。見送る。もうそこにはいない存在に対して、何かをする。触れることも会話をすることもできない相手に、花を手向ける。その意味はなんだろう。――けじめだろうか。もういない、ということを噛み締めて、向き合って、そして、まだここにいる自分が、生きていくための。
死ぬこと。奪うこと。生きること。
あの島で暮らしていたあいだ、ぼんやりと膜に覆われたように遠かったそれらが、この短期間で総士のなかに根を張って、確固たるものとして、存在感をあらわにしている。なにも持たなかった手に、ひとつずつ、総士が、総士自身でつかみとったものが、増えてゆく。
――……あ。
そうだ、これもだ。
ふと見おろした手、指の付け根あたりに、今まではなかった、うっすらと赤い環の痕がある。ファフナーパイロットたちの手に、必ずあるもの。零央や美三香、もちろん美羽にもある。それが、総士の指にも表れている。――ニーベルング接続による同化現象。ファフナーは、搭乗者に大きな力を与えると同時に、まるでその対価のように、同化現象によって命を脅かす存在だ。シミュレーションを担当した真矢にも、
死へつながるもの。けれど、確かに自分にちからがあるあかし。マークニヒトが総士のものであるという、あかし。
ちらりと美羽に視線をやって、総士は静かに口を開いた。
「……この指環の痕って、消えないのか」
「……うん」
美羽の返事に覇気はない。総士の言葉を聞いているのかもわからない。
「悲しいことがあると、黒い服を着るのか」
「うん……」
「……きみ、大丈夫か」
「うん……」
大丈夫、なんて答えが返ってくるとは思っていなかったし、たとえ返ってきたとしても、大丈夫じゃないくせに、と、怒ってしまったかもしれない。けれど、こうして落ち込んでいる美羽を見続けているのもつらい。どうにかならないものか――。
「皆城総士!」
ぴん、と、空気が張り詰めた。顔を上げれば、おぼろげにどこかで見たことのあるような男が立っていた。
「お前が敵を呼んだのか」
――ああ、やっぱり。
怒気を滲ませた声に、ぐっとくちびるを噛む。
疑われたまま死ぬもんかと、そう思って戦いに出た。この島の人間に、
例え零央の八分の一だとしても、総士だって〝敵〟を倒した。もちろんそれは、この、海神島にとっての〝敵〟だからじゃない。総士のいのちとこころを脅かす存在を、
けれど、それでも、事実として、この島に対する脅威を退けたことに変わりはない。それなのに、疑われるのか。軽んじられるのか。マリスだけじゃない。この島の人間にだって、総士の気持ちは伝わらない。悔しい。――だけど。
「――勝手にそう信じればいいじゃないか!」
誰に何を思われたって、総士のするべきことは変わらない。揺らがない。そう思いたいのなら、思っていればいい。総士が敵に情報を伝えているのだと思い込んでいるあいだは、本当の情報漏れの原因なんて見つけられない。
――そんな
啖呵を切った総士に美羽が「そんな風に言うから信じてもらえないんだよ」と心配そうに言うが、知ったことではない。ふん、と、顔を背ける。
ただ、真矢や彗が、遠回しに、総士が敵に情報を渡しているわけではない、と、そう言ってくれたのは、すなおに――うれしかった。