それでもなお、愛しき日々
必ず皆、無事に帰って来ると信じていた。
それは自分の不安を誤魔化すものではなく、また、彼らに不安を与えないようにするための、はったりでもなかった。どれほど絶望的な状況であっても、どれだけ無謀な作戦であっても、ここまで生きてきたそのことこそが、これから先も彼らが生きるために「帰る」ことを信じさせた。どんな暗闇であっても、そこに一条のひかりはさす。どんな偶然も運命も神も信じていなくとも、それだけは、たったそれだけは、揺るぎのない信念として史彦のなかにあった。
しかし、北極に一騎と総士だけが取り残されたと聞いたとき、さすがの史彦もすこしばかり弱気になった。敵の陣地の真っただ中からふたりだけで帰ってくるなど、無理なのではないか――そんな諦念がすこしもよぎらなかった、と言えば、嘘になる。だが、それを打ち消すように、探査圏内にマークザインの機体コードは現れたのだ。
日が昇り、海は輝いていた。
一騎と総士が帰ってくるまでは決して休めない、と言ってファフナーを待機させたまま待っていたこどもたちが、疲れ切ってほとんど動けなかったはずのからだを跳ねさせて飛び出していく。それを見ながら思わず腰を浮かせた史彦は、はっとして立ち止まった。いくら作戦が成功したとは言え、まだ油断はできない。司令である自分がCDCを出るわけにはいかない。しかし、そんな史彦に「何やってんだい」と呆れたような、叱るような声がとぶ。行美が「早く行ってやんな」と肩を竦めれば、「ここはいいですから」「早く」とみなが口をそろえる。それぞれのこどもたちの帰還を、その腕でよろこび迎えたものたちが、史彦もそうするべきだというように頷く。
「司令として戦場に送り出した、そしてそれは今終わったんだ。なら、今のお前は、父親としてあいつを迎えてやるべきだろう」
ばしりと強めに背中を叩いた溝口を睨もうとして、それは、くしゃりとゆがんだ。
ありがとう、と、つぶやいて駆け出す。吊るした腕でバランスが崩れる。それも構わずに走った。地上に出れば真っ青な空が見える。蒼穹――青くて広い空のこと。こどもの声が耳に反響した。海との境界線があいまいになるほど青い青い世界のなかに、ぼろぼろになりながらも形をたもつのは虹色にひかる白亜の機体だった。その下に、仲間たちにもみくちゃにされるこどもがいる。――確かに、いる。
「かず…き…」
思わずこぼれた声はかすかなものだった。しかし、仲間たちに囲まれていた一騎は、まっすぐに史彦を見る。その瞳はここを旅立ったときとは違って真っ赤に染まり、史彦を見てはいても、視線が、合わない。ああ、見えていないのか。見えなくなって、しまったのか。
「…と…、う、さん」
ちいさなその声で、一騎の周りにいた皆が史彦の存在に気づく。史彦は一歩一歩、一騎にむかって足を踏み出した。海水と砂に足をとられるのがもどかしい。それでもなんとか辿り着いたそこに、一騎はちゃんと立っていた。まぼろしでも夢でもなく、今にも消えてしまいそうな気配をまといながらも、そこに、たったひとりの大切なこどもは、生きていた。
「――…一騎」
「……うん」
「……よく、帰ってきた」
「………うん」
言葉は互いに多くない。父も子も口下手なのはよく似ていた。こんな場面でもそれは変わらないと思うと、どこか、ほっとする。一騎の顔を間近で見て、史彦は暫し感慨に耽った。己をかえりみず「いかせてくれ」と泣いて縋ったこどもの顔は、もう、そこにはない。絶望と諦念、そして復讐心しかなかったあの表情はなく――そのかわりに、ただ静謐なかなしみと、穏やかなさみしさが、ある。一騎の傍らにあるべきはずの姿がないことに、とっくに気づいていて、史彦は敢えて問わなかった。
一騎が口を開き、閉じて、泣きそうに顔をゆがめる。
「そ…し、を…」
連れて、帰れなかった。
そう言った一騎は、けれどひとつ目を閉じて、小さなほほえみを浮かべる。
「失ったからだを…フェストゥムの側でつくりなおすって…、必ず…、帰って、くる、って…」
「……――そうか」
「…うん」
生真面目で、不器用で、どこまでも現実的な彼が――総士が、夢ものがたりを口にすることはない。生まれたときから島のためのいのちだと言い含められ、それを受け入れてきた少年は、自分のいのちのゆくえに対して嘘をつかない。相手が一騎であればなおさらだ。できない約束は、決してしない。消えるならば消えてしまうと、そう言い切ってしまえるほどに、かなしいほどに、彼は潔いこどもだった。だから、「帰る」というその言葉は信じるに値する言葉なのだ。――少なくとも、一騎にとって、生きる理由になる言葉だ。
「……とう、さん」
なんだ、と、史彦が言うよりも早く、かすかな声で一騎はつぶやく。
――しんじて、いかせてくれて、ありがとう。
それが史彦の耳に届いたのと、一騎が――どれほどからだが不自由になろうとも父の手は借りなかったこどものからだが、史彦の腕のなかに崩れおちたのは、同時だった。
*
――おもっていた以上に軽くて、細くて、おどろいたんです。杖をついているときだって、あいつは俺に頼らなかった。
自嘲とも苦笑ともいえない複雑な笑みでもっておもわず零した言葉に、無言でそっと肩に置かれた千鶴の手は、憐れみでも、慰めでもなかったろう。自分もおなじだ、と、その苦いおもいを共有するように触れ、離れていった。
アルヴィス内のメディカルルーム。そのなかでも、同化現象の重篤者が運ばれるICUに史彦はたたずんでいた。史彦にはどれが何だかもまったくわからないような機器が並ぶ、無機質で清潔すぎるほどの部屋には、機械的な音しかひびいていない。北極から帰還し、わずかな言葉をかわした直後に倒れた息子は、あれから一週間、同化抑制のための赤い液体で満たされたカプセルのなかで眠っている。容態が落ち着くまでは史彦もなかなか近づくことが叶わなかったが、今はもう、いのちそのものに別条はないということで、部屋のなかには史彦しかいない。
同化現象の、ほとんど末期だったと言われた。
消えるか消えないか、その、一歩手前であったと。
かつて真壁紅音であったもの――ミョルニアのもたらしたデータにより開発された緩和薬をもってしても抑えきれないほどに、極限のたたかいを、一騎はのりこえて、帰ってきたのだ。
――目覚めるまでは…時間を要すると、思います。
まるで自分の子に対するように、苦しげな表情で千鶴は告げた。一騎の容態はひとまず落ち着いている。これ以上同化現象が進むことはない。けれど、極限まで酷使されたからだが目覚めるまでは、どれくらいの時間を要するかわからないということだった。おなじように同化現象によって昏睡状態に陥っていた要咲良の容態は回復傾向にあり、目覚めも近いかもしれないと言われているが、彼女と一騎では、乗っていたファフナーの性質が違いすぎる。比較はできない。マークザインは未だに謎の多い機体であり、現在の島の知識も技術も、完全には及びつかないところがある。
一騎が目覚めるまで、一か月、半年、一年――あるいはそれ以上なのか、誰もわからない。
――だが、生きている。
史彦は、そっとカプセルの上に手を乗せる。触れることはできない息子の、真っ白な顔を見つめる。元より母親に似て白い肌ではあったものの、こんなに、透けてしまいそうなほどではなかった。けれど、たしかに、息をしている。触れることができなくても、白い肌のそのむこうで、たしかに心臓が脈打っている。それだけで今は、じゅうぶんだった。
こどもたちの大切な――多感な時期の、大切な時間をうばったのは、自分たちおとなだ。生きているだけでじゅうぶんだ、などと、思う資格は本当にはない。――ない、けれど、それでも、親として、いまここに、一騎のいのちがあるということがただ喜ばしく、愛しかった。消えないでいてくれた。帰ってきてくれた。生きていて、くれた。それだけで。
――なんというエゴだろう。
ここで自分は、いったいいままで、どれだけの、こどものいのちを、見送り、看取り――うばおうとしただろう。いのちの選別などあってはならないと思いながら、実際、史彦たちがしてきたのはそういうことだ。生きるためにうばおうとした。息子のだいじなともだちで、ちいさなころから知っているいのちをも。
いま、自分の子を前に、もしもこの子をこのまま目覚めさせぬようにしろと言われたらどうするだろうかと考え、きっと「できる」だろうと、そう思った。
できる。してしまえる。――しなければならない。
可能か不可能かの二択で言えば、可能なのだ。
多くの犠牲が自分のあゆんできた道のうしろにはある。
けれど、それでも――可能であったとしても、きっとこの子をうばってしまったら、もう自分は、まともには生きていけない。
――俺は、いつもそうだ。
アルヴィスの司令として選ぶべきものと、ひとりの父親として選びたいもの。そのはざまで、いつも揺れている。未完成なにんげんでありながら、ひとのいのちを預かり――選んでいる。
公蔵ならばどうしただろう、と、そうおもうことがある。
彼こそ、生まれたそのときから、息子に対して、自分のこどもであることよりも、島のためのいのちであることを求めてきた。総士自身もそれに懸命に応えようとしていた。彼らのあいだに親子としての情がなかったとはおもわない。あまりにも不器用であったがために、互いに伝わりきらないおもいは多かっただろう。それは史彦と一騎もおなじだ。しかし、公蔵であれば、史彦のように悩むことなく、こどもよりも、島を優先したのではないか、と、おもうのだ。そしてそれを総士は、だまって受け入れるのだろうと。
情のかたちや重さは、他人にはわからない。見えるものでもない。正しいとか、まちがっているとか、それは史彦が決めることでもない。
けれどだからこそ、総士のために北極へ行きたいと、ひとりでも行くのだと、そう言った一騎のこころを史彦は否定できなかった。もしも史彦が父親としての自分をころして選択せねばならないとき、一騎という存在を守るのは、また、総士なのであろうと、そうおもったのだ。
その片割れは、ここにはいない。
いつ目覚めるかわからない一騎と、いつ戻ってくるのかわからない総士。
「…俺もお前も、こどもたちに、あまりにも多く、背負わせすぎた」
それを悔いることも、謝ることもできないのに。
遠く、かなた、もう声も届かないばしょにいるかつての友へ、史彦はちいさくつぶやき目を伏せた。
*
目覚めると、布団の外がきん、と冷えていた。
島のバイオスフィア機能が正常に戻り、南へ舵を切ってしばらく経つ。季節は以前のとおり正しくめぐり、もうすぐ本格的な冬がおとずれようとしている。無防備な状態で北極圏にしばらくいたせいか、どうにも、長いことずっと冬であるような気がしてならない。
史彦は、布団から起き出して、ストーブをつけようと思ったところで、灯油が切れていることに気づいた。外に面した倉庫に買い置きがあるはずだが、薄着のままではとても出て行く気になれない。そうだ、いつもならば、これだけ寒くなってくれば半纏が出してあって――。
「…どこだ」
そういえば、冬用の布団だってどこにあるのかわからなくて、まだ出していないのだ。仕方なく、史彦は吊るしたままの不自由な片腕をそのままに、アルヴィスで支給されているコートを適当に羽織って外へ出た。
朝方の空気は冷えているが、澄んでもいる。朝日が徐々に顔を見せ、薄紫の空のかなたがあかく縁取られていた。
無事に灯油を運び込んだ史彦は、ストーブをつけてから、出勤までまだだいぶ時間があることに気づいた。とは言っても、CDCに赴く前に食堂で朝食を取る時間を考えれば、多くの家事をこなすほどの余裕もない。とりあえず着替えて、冬物と、半纏と、炬燵布団のありかを探すことにする。
「自分の家だというのに、何がどこにあるかさえ、俺は知らんのだな」
ありとあらゆる箪笥を開け、物置をのぞきこんで、やっと史彦は冬に必要なものを見つけ出した。北極圏に停泊していたころは、寒いながらに余裕がなく、また、一騎が万全な状態ではなかったために、なんとか秋物でしのいでいた。家のことを一切合切、一騎に任せていたのだということを改めて思い知る。
紅音にしろ、一騎にしろ、「ひとりになったらどうするんだ」というようなことを、よく口にしていたのを思い出す。それはきっと、自分の衣食住に頓着しない史彦に対する呆れから出ていた言葉だったのだろうが、今になって思えば、史彦自身、「そんなことにはならない」と、どこかで思っていたかったのかもしれない。だから、ふたりの言葉を、無意識に聞き流してきたのだろう。
島の平和がいつ壊れるともしれない脆弱なものであることも、戦いに身を投じれば、等しく死の危機がふりかかることも、よく知っていたはずなのに。結局、自分は誰より臆病であったのかもしれない、と、そう思う。
物置から引っ張り出した冬物のケースのなかには、一騎のものもある。
――使うかどうか、わからない。
そうわかっていながら、史彦は、家を出るまでのわずかな時間で、ケースの中身を一騎の部屋の箪笥に入れ替えた。
「まぁたここで食ってんのか」
「……悪いか」
「拗ねたこどもみたいな反応だなぁ」
よいせ、と、目の前に腰を下ろしたのは溝口だ。朝のアルヴィス内の食堂は空いていて、ちらほらと朝食をとっているスタッフの姿があるだけである。ここもある程度被害を受けていたが、復旧作業に携わるスタッフに食事を提供するために、と、アルヴィスのなかでもいち早く仮復旧がおこなわれ、完全な状態ではないものの営業をおこなっている。
朝食は、洋食か和食かの選択式になっていた。一騎の作る朝食がたいてい和食であったため、なんとなく、史彦はここで毎日和食を選んでいた。今日は豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭、白飯に沢庵だ。――今日は、というか、ほぼ毎日、内容は変わらない。「飽きねぇのか」と溝口が向かい側でにやにやと笑っている。
「…飽きる飽きないの問題ではないだろう。そういうお前は、食わないのか」
「俺はもう食ってきたさ。お前とちがって、飯はつくれるからな?」
今朝は豚汁だったんだぞ~、と、まるで史彦を煽るような物言いに、「何が言いたいんだ」と顔を顰める。溝口はふとまじめな顔になって、その豪快な風貌とは打って変わったしずかな声を出した。
「なんなら、俺んちに食いに来い。いつまでも毎食アルヴィスの食堂ってんじゃ、味気ないだろ。お前、いつもひとりだし。前に一騎が島を出てたときだってそうだったじゃねぇか」
「それは…」
考えなかった、わけではない。
ただ、なんとなく、みずから言い出すきもちになれなかった。それに、朝一番にここで朝食をとり、一騎の眠るICUを覗いてからCDCに向かうのが習慣になってきて、それはまるでかつての朝のようで、変える気になれなかった。
眠っていても、話せなくても、ここには一騎がいる。そばにいるような――そんな気がして。
「一騎がいるからか?」
わかっていると言いたげに溝口は言い、史彦は目を瞬かせる。なぜだ、と言うより早く、溝口が苦笑しながら口を開いた。
「総士も、そうだったなとおもったのさ」
「…総士くん?」
「あいついつも、ここで食ってただろ。ひとりで、お行儀よく、仕事するみたいに、背筋伸ばしてさ」
父を失って、居をアルヴィス内に移してからというもの、総士は学校にいる以外の時間はほとんどアルヴィスで過ごしていた。無論、食事もすべてアルヴィスの食堂でとっていたし、その姿を見かけることはよくあった。
いつもひとり。
こどもでありながら、おさないころからアルヴィスに出入りし、真実を知って、あまつさえCDCにおいて、おとなと同様の発言力を持っていた彼を、おとなたちは「こども扱い」しなかった。できなかった、というのが、正しいのかもしれない。おとなたちは総士のことを他のこどもとは線を引いて認識していたし、総士自身も、そんな雰囲気をまとっていたからだ。
自分は、なにも知らないこどもではない。為すべき役割をもつ、アルヴィスの一員である。
それは彼の誇りでもあっただろうが、重荷でもあった。
ひとりでこどもが食事をしていれば、たいていのおとなは声をかける。しかし、総士に声をかけるものは、ひとりもいなかった。声をかけるものがいたとしても、総士自身が、振り払っていたかもしれない。そうあるべきだと、彼は自分で自分に課していたところがある。
「俺たちから見ればあいつはいつも、ひとりだった。でもよ、皆城乙姫が目覚めてから、あいつらふたりでここに来ることが多くなって、そしたら、なんとなく気づいたんだ。あいつそもそも、皆城乙姫がここにいるから、この中で暮らして、飯食って、それでも、ひとりじゃなかったんじゃねぇかって」
――ああ、それは。
史彦は、つい数週間前の――今となっては遠いむかしのような朝を、おもいだす。
「…一騎が、総士くんと皆城乙姫を、朝食に呼んだことがある」
「一騎が?」
――乙姫が、どうしても食べたいと言うのを、一騎が聞いて…。
申し訳ありません、と、めずらしく眉根を下げながら家に来た総士のかたわらで、にこにこと楽しそうに彼の妹は笑っていた。どうやら、彼女が本で読んだ「目玉焼きの乗ったトースト」がどうしても食べたい、と、総士にねだっているのを一騎が聞いたらしい。アルヴィスの食堂で出る朝食に、「目玉焼き」も「トースト」もあるにはあるが、それじゃだめ、と、乙姫が頬を膨らませたという。
「バターと、マヨネーズをたっぷりのせて、そこに卵を落とすんだよ、総士」
困った顔をする総士の横で、「なんだ、それくらいすぐできるじゃないか」と一騎が言った結果、朝食に招くにいたったということだった。史彦としては何も謝られることはないのだが、はしゃぐ乙姫の横で、総士はなんとも居心地の悪そうな顔をしていた。
しかし、いざ目的のトーストが目の前に運ばれてくるなり、ちいさなくちを開いてかぶりついた妹が目を輝かせ、「おいしいよ!総士!」と言ったとたん、いつも頑なに引き結ばれた総士の口元は笑み崩れた。「よかったな」と言いながらちいさなあたまを撫でる手のやさしさに、史彦は、久しく忘れていた、おさないころの総士をおもいだした。そうだ、そういう、こどもだったのだ。
――いや、こども、なのだ。
今もまだ。
たとえ容易に他者に見せることがなくても、笑いもするし、泣きもする。迷いためらい、痛みを自分だけで抱えこみ、不器用ながらに、すべてを守ろうとするやさしいこども。
家に帰らず、ひとりでいるように見えた総士は、その実、ここにいることで安心していたのだろう。おさないころ、たびたびワルキューレの岩戸で眠っているのを発見されていたときと、なにも変わらない。そのことに、おとなが気づけなかっただけだ。
今ならば、総士のきもちが確かにわかる。例え言葉を交わせなくても、触れることができなくても、そこに確かに息づいている、存在の痕跡がある、その安心感。できるだけそばにいたいという想い。
もどかしさと愛しさのまじりあうこんな想いを、あの子はずっと、ひとりでひた隠していたのだろうか。
ここにいたい、と、泣いた乙姫のこどもらしい弱さと、それでも顔を上げ、ありがとう、と言いながら還っていった強かさを、あの最期を、総士は知らない。そばにいさせてやれなかった。たったひとりのきょうだいを、それぞれ、別の場所でうしなわせてしまった。
「…こどもに教えられることばかりだ。そしていつも、気づくのが遅い」
「そんなの、みんな一緒さ」
お前だけじゃねぇよ、と、溝口が肩を竦める。
「…一騎、総士は帰って来るって、そう言ったんだろ」
「ああ」
「一騎が言ったんなら、帰って来るさ。総士が帰って来るなら、一騎だって、ちゃんと目ぇ覚ます。だからお前は、ちゃんと飯食って、寝て、元気でいろ」
なんだ、そんなことが言いたかったのか、と、史彦は目を瞬かせて、そして苦笑する。そんなに自分は、弱って見えていたのだろうか。
――ああそういえば、紅音を失ったときも、「一騎がいるんだから、お前がちゃんと生きていなきゃだめだ」と言ったのは溝口だった。
生きる。生きろ。
かつて紅音もそう言っていた。
自分が生きるためになにかを犠牲にしてきたとしても、だからこそ、生きることを悔いてはいけない。
そうだな、と、頷いて、史彦はすこし口元を緩めた。
「なぁ、溝口」
「なんだ?」
「米の炊き方を、教えてくれ」
負傷していた腕が完治したのは春がくるころだった。
自由に腕が使えるようになってから溝口に指南してもらい、炊飯器の使い方と米のとぎ方を覚え、芯は多少残るものの、なんとか食べられるような米を炊けるようになったころには、あちこちで桜の蕾がふくらんでいた。
島に花のにおいがあふれ、あたたかな風が吹くたび、長い黒髪を揺らしながらほほえむ少女のすがたがそこかしこにあるように感じられる気がして、史彦は無意識にワルキューレの岩戸へ足を運ぶようになっていた。紅い液体のなかにふわふわと浮かぶいのちはあまりにもちいさい。彼女に意思が存在しているのかどうかは、史彦にはわからなかった。成長すれば、また、ひとの言葉を理解し、自分たちと会話をするかもしれない――そう、芹や里奈に言いはしたが、可能性は未知数だ。二代目のコア、というものを迎えるのは初めてのことであり、千鶴たちですらなにもかもがわかっているわけではない。
あたらしいコアは、皆城乙姫そのものではない。
彼女自身が再び目覚めるわけではない。
それでも、あたらしいいのちの鼓動とともに、生まれるために還っていった少女の息吹はずっとここにある気がするのだ。
総士もそう思うだろうか。一騎もそう言うだろうか。どうしてかここへ来ると、まなうらには笑うこどもたちの顔がうかぶ。
――はやく目を覚ませ。はやく帰ってこい。
そう願い、史彦は毎日、来る日も来る日も、岩戸と、一騎のいるICUへ通い続けた。
目覚めない一騎にちいさな声で話しかけ、寝顔を見つめる。おだやかな寝顔の日もあれば、すこし、くるしそうな日もあった。千鶴によれば、一騎は夢を見ているらしい。
「脳波は安定してきていますから、今は、あまり悪い夢を見ているわけではないのだと思います。穏やかな、夢なのかもしれません」
千鶴の言葉に、そうであってほしいと史彦は願った。
*
――一騎、桜が咲いたんだ。ミールが生と死を学んだころに勘違いで咲かせた桜もきれいだったが、今度こそほんとうに、春の桜だ。咲良くんも目を覚ました。まだ動けるわけではないが、徐々にリハビリをはじめると言っている。誰もが諦めなかった結果だ。帰ってくることはできる――お前もだ、一騎。
一騎、ここ最近はずっと雨がつづいている。洗濯物が乾かないとお前が顔をしかめていたのが今になってよくわかる。父さんはついに面倒くさくなってアルヴィスのクリーニングに頼ってしまった。ついでに担当者と話していたら、「受け取りに来られないのはわかってるんですけど」と、総士くんが預けていたものをずっと保管しているのだと言っていた。待っているのはお前だけじゃない。
一騎、味噌汁というのは、味噌を入れればそれでいいものじゃあなかったのか。味が違う。溝口に言ったらあきれた顔はしたが、「一騎に教えてもらえ」と言って教えてくれなかった。まだ父さんは米くらいしか用意できない。そういえば、親をうしなったあと、ひとのつくる飯の美味さを教えてくれたのは紅音――母さんだった。お前の味は、母さんのによく似ているんだな。ひとりで食べるのにはやはり慣れない。
一騎、夏休みが始まった。真矢くんたちが、パイロット候補生たちをつれて今年も海に行っていた。芹くんが、みんなで撮った写真を持って岩戸で思い出話を聞かせていたところに出くわしてしまった。彼女に岩戸入室の許可は出ていないが、コアが入れてしまうのだから、我々にはどうしようもない。彼女は、早くお前たちふたりにあたらしいコアと会ってほしいと言っていた。父さんも、そう思う。
――一騎。…一騎。……一騎。
「…おかしい、ものですね」
ぽつりと零した声に、目をまたたかせたのは千鶴だった。
その日は、一騎が眠りについてほとんど一年の月日が経って、ようやく、一騎のからだがICUから普通の病室へ移された日だった。
紅い液体のなかではなく、白いシーツのうえに、細くなってしまった白いからだが病衣につつまれて静かに横たわっている。ちいさいが、呼吸の音が聞こえ、触れれば、すこし低い体温がつたわる。
「一騎と暮らしてきたなかで、この一年ほど、一騎に話しかけたことは…なかったんです」
目が合って、声が聞こえて、反応が返ってくる――そんなあたりまえの日々のなか、史彦と一騎のあいだにはぎくしゃくとした僅かな会話があるのみだった。それなのに、聞こえないとわかっている今のほうが、饒舌になっているなんて、どこかおかしい。そう思っての発言だったが、千鶴は「真壁司令…」と目を細めたきり、史彦をわらうことも、慰めることもしなかった。
史彦が必ず毎日、一騎のもとへ足を運んでいたことを、多くのものが知っている。目覚めない息子のもとへ通いつづける姿を、憐れみをもって見ていたものたちも当然いることは知っていた。けれど、史彦は決して、後ろ向きなきもちで一騎の顔を見続けていたわけではない。触れられなくても、聞こえなくてもいい。ただそばにいてやりたい。そばにいたい。それだけだった。
島の日々の空の色や風のにおい、めぐる季節、なかまたちの声。そういうものを、一騎のもとへすこしでも届けたかったのだ。同じ思いをもって、ワルキューレの岩戸へも通っていた。一騎の目覚めを祈ると同時に、一騎にとっても、この島のコアにとっても大切な存在が帰って来ることを祈った。かつて岩戸に足を運び続けた総士も、乙姫に対しておなじような想いを持っていたのかもしれないと、そんなふうに思って。
そんな日々が、全くつらくないと言えば嘘になるだろうが、決して苦しいばかりではなかった。
今まで気づけなかった多くのことに気づいた。一騎のつくるご飯がどれだけおいしいものだったか、島にめぐる季節がそれぞれどれほどうつくしいものであったか、こどもたちにとって一騎や総士の存在がどれほど大きいものであったのか、――自分にとって、この島での、平和な日常が、どれほど、当たり前のように身に染みついてしまっていたのか。
「かつての平和は、我々が偽りながら、なんとか保っていたものだった。けれど今のこの平和は、一騎たちが…こどもたちが必死になってつかんでくれたものです。だからこそ、一騎にも…伝えたかったんです」
そこに、なにより大事な存在がいないことを、一騎は嘆くかもしれない。それでも、見てほしい。見えないのなら、感じてほしい。一騎が、総士が、皆城乙姫がつかんだあたらしい平和がここにはある。
「一騎くんが…、夢を見ているというお話を、しましたよね」
しずかな千鶴の声に、「ええ」と史彦は頷いた。
「一騎くんは、比較的、安心して、眠っている状態です。それはおそらく…、真壁司令が、声をかけているからだと、わたしは、思っています」
「遠見先生、」
「あなたのために、言っているというわけではありません。ただ…、同化現象の末期だったにもかかわらず、一騎くんが安定して自己を保っていられたのは、真壁司令や…、もしかしたら、紅音さんの意思が、どこかではたらいているかもしれないと、思ったんです。データだけですべてはわかりません。解明できないことも、まだ多くあります。だからこそ、数値で見えない何らかのちからがそこにあると、言うこともできます。…わたしが、そうであってほしいと、願っているだけかもしれませんが」
「いえ――いいえ…、遠見先生、…ありがとう」
わたしも、そうであればいいと、おもっています。
思わずつよく握った一騎の指先が、ぴくりとかすかに動いたのは――そのときだった。
*
「こんなところで会うのは、珍しいな」
紅色のあわいひかりで満たされた部屋は、岩戸と呼ばれるにふさわしく、常に重たく厚い扉で閉ざされている。入室を許可されているものは、島民のなかでもわずかしかいない。だがその「許可」もおとなたちが勝手に決めたものだと言わんばかりに、かつての部屋の住人――皆城乙姫は、まだ許可の降りていなかった一騎をやすやすと呼びこんでいたものだ。そして今なお、許可がないはずの立上芹を招き入れている。
逆に言えば、たとえ「許可」されていても、非常時でもない限り、ここへ敢えて足を踏み入れようというものはほとんどいない。史彦もそのひとりだった。だから、声をかけた史彦よりも、先に部屋のなかにいたこどものほうが、意外だという顔をしている。
「それは…、僕の台詞です」
「まぁ…、そうだな」
肩を竦めながら隣に並び立つと、こども――総士は、ゆっくり目を瞬かせて、居心地が悪そうな顔をした。なにも、彼の時間を邪魔しようとおもったわけではない。たまたま、自然と、ここへ足が向かっていたのだ。
――皆城総士が、島へ帰還した。
一年間眠り続けていた一騎が目覚めて、さらに一年。新たな敵の訪れとともに託された、対話と共存の希望。肉体を失いながらも再び島を救った彼が、一騎との約束を果たし、帰ってきた。
紆余曲折の後に、肉体を失う前と同じ生活に戻った総士には、当然のように、岩戸への入室許可も出されている。――そんなものがなくとも、この島のコアは総士をここへ導くだろうというのは、誰もがわかっていた。
史彦がここを訪れるのは久しぶりのことだ。一騎が目覚めてからは、一騎が、ここへよく訪れていた。ここだけではない。アルヴィスの総士の部屋の前、もう誰も寄り付かない坂の上の皆城の邸、通学路、海岸――あちこちで一騎はぼんやりと佇んでいた。まるでそこに総士の姿が見えるかのように、何も言わず、ほとんどものを映さなくなった紅い瞳で宙を見つめていた。そんなときの一騎はどこかへ行ってしまいそうで――それでいて、史彦には声がかけられなかった。一騎を、みちびくように、取り囲んでいる、何か。呼んでいるのに、留めている。連れ去ってしまいそうなのに、ここにいるように乞うている。今思えばあれは、クロッシングしていた総士の気配だったのかもしれない。触れてはいけない、触れられない。そんな一騎を遠くから見守ることしか、史彦にはできなかった。
しかし、そんな一騎も総士の帰還とともに落ち着きを取り戻し、元気な姿を見せている。
こんな日がまたやってくればいいと、そう、思っていた。一騎が目覚め、総士が帰って来る。そんな日が来ればいいと。
そう思いながら岩戸へ足を運んでいた日々を思い出し、史彦はちいさくほほえんだ。
「きみと、少し話がしたかった」
「僕と…?」
岩戸へ来た理由を告げれば、総士がますます訝しげに眉を顰める。しかし、以前と比較すればその表情はやわらかい。鬼気迫るほどの頑なさはなりを潜め、年相応な顔をするようになったと、思う。
「まずひとつ…、きみにずっと、礼を言いたかった。あの困難な状況で、よく、一騎を帰還させてくれた」
主語はなかったものの、北極でのことだと思い至ったらしい総士は、はっと目を見開いたあと、いいえ、と、首を横に振る。
「…それは…、ちがいます、司令。あのとき僕を救いあげたのは一騎と…甲洋です。僕が一騎を帰還させたのでは…」
「いや、君がいたから…君が生きていてくれたから、一騎は生きるために戦い、帰って来てくれた。ありがとう」
総士は、まさか礼を言われるなどと、思ってもいなかった、という顔をして居心地悪そうに口を開いては閉じる。何を言うべきか、迷っているのだろう。その先を遮るように、「それから」と史彦は口にした。
「それからもうひとつ…君にずっと伝えたかったことがある。皆城乙姫の…最期のことを」
今度こそ総士は、意外なことを言われた、という顔で目を瞠った。
「乙姫の…?」
「きみを、あの場にいさせてやれなくて、すまなかった」
謝ることすら自己満足なのだという自覚はあったが、言わずにおれなかった。総士は「し…、司令に謝られる理由がありません」と困惑した顔をしている。
「司令と遠見先生も、立上も、西尾もいてくれたのでしょう」
「…芹くんに、聞いたのか」
他に思いつかなかった。予想は当たったらしく「はい」と総士は頷く。
「僕は…、北極で最期に、乙姫がクロッシングしてきたのを感じました。ここにはいられませんでしたが、会えなかったわけでは……ありません」
「そうか…、そう、か…」
くしゃりと顔がゆがんで、おもわず目を伏せる。ありがとう、と、笑った少女が最期のさいごに会いに行ったのは、兄だったのだ。会いに行けたのだ。だからと言っておとなたちの積み重ねてきたものが、ゆるされるわけではない。なくなるわけではない。良かった、などと感じることがおこがましいのは、わかっている。それでも、それでも――。
――ふみひこ。
大人びた、達観したようなひとみ。それでもおさないこどもの、舌足らずな呼び方。還ってなお島を守ろうとした彼女の声がよみがえって、史彦は細く長く息を吐いた。
「…あの、司令」
呼ばれてゆっくり目を開ければ、総士が「僕もひとつ、言いたいことがあります」と見上げてくる。一度砕け散ったとは思えない、以前と変わらぬ灰色の瞳が、ためらうように、何度かまたたく。一騎が「総士の目って、朝みたい」と言っていたのをおもいだした。詩的なことばなど辞書に載っていないであろう息子がときどきそんなふうに言い出すのは、決まって、総士についてのことだった。
「司令が、僕のいないあいだ、ここへよく来られていたと、聞きました」
「ああ…、そうだな」
「…どうして、ですか」
訊かれるとは思っていなかった。どうして、と、改めて考えてみれば、はっきりと言えるような理由などないことに気づく。ただ、ここへ来れば、安心した。目覚めない一騎を、帰らない総士を、うしなった乙姫を、おおくのものを、感じられる気がした。そう――言うなれば。
「君と同じだったんだ」
「え…?」
不思議そうな顔をする総士にほほえんで、史彦は無意識に、その亜麻色の頭を撫でた。突然のこども扱いに、ぽかん、と固まる総士を尻目に、危機を乗り越えて成長していくコアを見上げる。
「いつかまた彼女にも、あれがほしい、これが食べたいと、言われるかもしれないな」
かつての朝の光景を思い出しながら言えば、「……そうですね」と総士がくしゃりと笑う。
尽きることのない痛みがあっても、おおくのかなしみが過ぎ去っても、それでもこどもたちはここにいる。
わらっている。
生きようとして――生きている。
だから言いたいのだ。たとえいつまた崩れると知れないものであっても、この、かれらがつかみとった平和が、日常が、――かくも美しく、愛しいものであるのだと。