ねがい、かなでて

 音楽、というものをカノンはあまり知らない。
 母が耳元でちいさく紡いでいた子守歌、街角で誰かが口ずさんでいたかつての流行歌、路地裏でかなでられる古い弦楽器のかすかな音。カノンが生まれ育った世界のなかで耳にしたのは、そういった「音楽」の切れ端のようなものばかりだ。いや、あれらを「音楽」と呼ぶのかどうかすら、カノンにはわからない。
 カノンが生まれたころ、すでに世界情勢は切迫していた。世界の大半は宇宙からの侵略者によって破壊されていて、残された生存圏ですら、いつ彼らの破壊の標的になるか誰にもわからない状況だった。絶対の安全も平和もない街で、それでも、今日という一日を生き延び、やり過ごす。隣で眠る母親が、足の速さを競うともだちが、いつもの街角で遠い目をして楽器をかなでる老人が、明日もそこにいるなんて保障はない。それをカノンは幼いながらに知っていたし、皆、それは同じだったろう。だからこそ、「音楽」というものを殊更に意識して聴くことなどなかったし、自分の名前がその「音楽」の一種なのだと教えられても、それがどういうものなのか、調べる術も聴く術も、当時のカノンにはなかった。
 ただ、母が子守歌がわりに口ずさんでいたやわらかなメロディが、ほんのすこし、記憶に残っているだけで――。


「あいつ、芸能人になりたいって籠城したんだ。放送室にさ」
 きらびやかな照明で溢れたコミカルな色合いのセットのなか、明るいメロディを高らかに歌い上げている後輩を見ながら剣司がぱちん、と、手元の書類をホチキスで留める。天井から吊り下げられたボックスのなかにぽつんと置かれた、四角い箱のようなテレビから流れる歌声をBGMに作業を始めてから、数十分が経っていた。
 そのむかし、日本という国が存在したころに放映されていたありとあらゆる番組が島のアーカイブには残されていて、たったひとつきりのローカルチャンネルでは、かつて、そのなかから選別されたものを流していたという。しかしカノンが島に暮らすようになったころから、チャンネルはひとつ、ふたつと増えていき、今ではアーカイブにあるものだけではなく、新たに作られた番組も流されている。その発端は今まさにテレビのなかで楽しげに歌って踊っている後輩らしい。
 カノンはその詳しい経緯を知らなかった。カノンにとっては広登がテレビのなかで歌って踊っているのは当たり前の光景だったのだ。そのため、ふと、「そういえば、広登は学生とは別に第二種任務を割り当てられているのか?」と今更ながらの問いを剣司に投げかけた。〈クリスマス会のお知らせ〉と書かれたモノクロ印刷のチラシに色鉛筆で色をつけるのに飽きてきたころあいだった。その答えが前述の剣司の言葉である。
 ろうじょう。また難しい言葉だな、と、カノンは目を瞬かせる。それに気づいた剣司が「立てこもりした、ってこと」と肩を竦めて言う。
「カノンが来るちょっと前まで、俺たちが島の外の事情を隠されてた、っていうのは、知ってるだろ」
「ああ…、それは、母さんから聞いた」
「広登が立てこもったのは、本当のことが知らされたちょっと後でさ。それまでは俺たち、このまま中学校を出れば島の外の高校に行くとか、働きに出るとか、ふつうの将来を考えてたんだ。ふつう、っていうか、まぁ、日本があってフェストゥムなんていない世界ならふつうだったろうな、っていう将来だな。広登は昔っから、スターになりたかったんだよ」
 スター。要は、有名な芸能人ということか。
 芸能人、とか、アイドル、などという存在を知ったのは島に来てからだ。竜宮島のアーカイブは本当にありとあらゆる情報を保存していて、かつての日本で流行ったというアイドルなるものの番組はときどき流されているし、商店街のレコード店に行けばCDも売られている。
 世界情勢を知らなかったころのこどもたちがそれらを見て聴いて育てば、「将来は芸能人になりたい」と思うものも当然出るだろう。なるほどな、とカノンは納得する。
「進路相談で芸能人にはなれないって言われて、あいつ、悔しかったんだ。目指したけどだめだった、ってわけじゃなくて、最初っから、この世界じゃ無理だって言われたらさ。俺たち、まだあのころ、現実を受け止めきれてなかったし」
「そうか……」
 それはカノンにはない感覚だった。生まれたときから世界はこういうものだ、と決まっていたからだ。
 ただ生き延びるということだけがすべてだった。夢を見て、何かになりたい、どういうおとなになりたい、ということを考える余裕など、どこにもなかった。島にはそれがある。世界の真実を知って、戦いに身を投じてもなお、ここには平和で穏やかな時間が流れているのだ。それがいつ壊れるかわからなくとも、まがいものだと、にせものだと、そう言われたとしても、カノンにとって初めて知った愛しい時間がここにはある。
「だけどさ、この島でも、スターになれないわけじゃないだろ。あいつ自分でアルヴィスの広報部に頼んだんだよ。番組作って、そこに出させてくれって。だからあれは第二種任務でもなんでもないんだ。やりたいことを、やってるだけ」
「やりたい、こと…」
 冬が過ぎ、春が来れば高校三年生になるカノンたちには、それぞれ進路を選ぶ時期が差し迫っていた。まだ正式に決定したわけではないものの、夏の大きな戦闘を経て、カノンたちの世代のほとんどをファフナーから降ろすという方向性をアルヴィス上層部は示している。もしそうなれば、ファフナー・パイロットとしてではなく、各々の適性と希望に沿った第一種任務が割り当てられるだろうし、第二種任務を与えられるものもいるだろう。しかしそれは強制的に決定されるものではなく、あくまでも、本人の希望を優先すると言われている。
 やりたいこと。夢。
 戦う以外の日常を享受しながら、穏やかな時間を幸せにおもいながら、戦う以外の道を選ぶ自分が、どうにも、思い浮かべられない――。
 ぼんやりと思考の海に沈みかけたカノンは、「あ、」という、何かに気づいたらしい剣司の声ではっと顔を上げた。
「な、なんだ?」
「いや…、そういえば、籠城した広登を最後に説得したの、容子先生だったんだよ」
「母さんが?」
「俺はその場にいなかったけど、後になって、広登が言ってたんだ。自分たちはずっと戦争のなかで生きて来て、夢を見ることもできなかったから…俺たちが夢を持ってくれることが嬉しいんだ、って…その希望を受け継ぐためにも、生き延びてほしいんだって、そう言ってたって」


          *


 からん、と、聞き慣れたベルの音を鳴らして入った空間に、甘いにおいが満ちていた。
「いらっしゃ…あ、おつかれさま、カノン」
「ああ…、」
 いつもどおり、やわらかな声と笑顔で迎えてくれた一騎に返事をしながら、カノンは思わず目を瞬かせる。昼時はとうに過ぎている喫茶楽園のなかには、客はほとんどいなかった。カウンター席の端っこに、亜麻色のあたまがひとつ、俯き気味に傾いでいる。カノンが入ってきたことに気づいていないのか、じっとして動かないそのあたまを、「そーし」と言いながら一騎が軽く叩いて顔を上げるように促した。はっとしたように総士が振り返り、カノンの姿を捉える。
「あ…、ああ、カノンか。生徒会だったんだろう、おつかれさま」
「ああ。ありがとう。お前が人の気配に気づかないのは、珍しいな。…あとこの、甘い匂いはなんだ…?」
 みずからもカウンター席に腰かけ、コートを脱ぎながらカノンは首を傾げた。
 喫茶楽園ではデザートも多く提供しているが、ピークの時間帯を過ぎて、何がしかを作っているのはめずらしい。見れば、厨房の奥のオーブンのなかで何かが焼かれているようだ。
「クリスマス会用の、ケーキの試作してるんだ」
「そうか、料理はお前の担当だったな」
 クリスマス会、というのは、今まで特に大きなイベントとして行われてきたわけではなかった。しかし今年は、盆祭りが敵の襲来によって中途半端に終わってしまったことと、その敵の襲来によって潰れた夏休みだとか授業だとかのしわ寄せがきたために、文化祭の規模を縮小せざるを得なかったことを鑑み、学校行事として実行することになったのだ。竜宮島学園の体育館を使い、さまざまな出し物や、プレゼント交換会が予定されており、立食形式で料理も振る舞われる。その料理が、一騎の――というよりは、喫茶楽園の担当となっていた。
「そうだ、カノン、もし昼がまだなら、料理の試作品食べてくれるか?」
「いいのか?」
「もちろん」
 差し出された皿のうえには、切り分けられたミートパイと、フライドチキンがのっていた。カノンが食べやすいようにだろう、サラダとパン、スープも添えられている。
「もうこれでじゅうぶんにクリスマスディナーになるな…」
「そうか? 実際は、パイとチキンだけになるけどな。つまんで食べられるものがいいだろうと思って」
 野菜もあったほうがいいのかな、と言いながら、ピー、ピー、と出来上がりを告げ出したオーブンのほうへ向かっていく一騎を見送って、カノンは手を合わせる。いただきます、というこの言葉も島に来てから覚えたのに、もうすっかり馴染んでしまった。パイにかぶりつけば、さくっと音をたて、香ばしいかおりと、肉のうまみが口いっぱいに広がる。やっぱり一騎のつくるものは最高においしい。
 おもわず頬をゆるゆると緩ませたカノンはふと、隣にいる総士がまた顔を伏せ、何やら小さく唸っていることに気づいた。手元には珍しく、アルヴィスで支給されている端末ではなく、紙のメモらしきものがある。
 総士は、島へ帰還してから数週間の検査と隔離を経て、今は以前と同じような生活に戻り、冬になってからは一騎とともに復学もしていた。今回のクリスマス会においても、総士は役割を与えられている。
 ――そもそもこのクリスマス会の開催は、盆祭りが中途半端で終わったとか、文化祭が縮小されたとか、そういったのは対外的な理由であって、率先して企画を行ってきたパイロットたちからすれば、当時は療養中で参加できなかった一騎と総士を引っ張り出したい、というのが真の理由なのだった。
 しかし総士は、いったい何をそんなに悩んでいるのだろうか。ぱくぱくとパイを咀嚼しながら、カノンは「どうしたんだ?」と総士に話しかけてみる。
「いや…、大したことではないんだが」
「うん?」
「クリスマス会のBGM選びが難航している」
 ふは、と、カノンは思わず噴き出しかけた口を手でふさいだ。むつかしい顔をした総士から出てきた言葉が、あまりにも予想外だった。
「な…、なぜ笑うんだ」
「いや…、すまない、その…、そうだったな、お前はBGM担当だったな」
「そうだ。そもそも役割を振ったのは生徒会だろう」
 なのになぜ君が笑うんだと顔を顰める総士に、カノンは笑いをおさめるため、グラスにそそがれた水を飲みくだす。
 ――総士は、すこし、変わったとおもう。
 カノンが出逢ったころの総士は、日常の学校生活においては年相応の顔をすることも稀にあったが、基本的には、戦闘時とおなじように気を張った、あくまでも戦闘指揮官というイメージが強かった。それはカノンが人類軍時代に見て来た上官たちと似たようなもので、戦争をしている組織のなか、重要な役割を担う指揮官であれば当然と思えた。それに、他のパイロットたちとちがって、カノンは幼いころの総士を知らない。取っつきにくく、頑なで、生真面目。戦闘時は迅速に的確な判断をくだし、冷静で、ときに怜悧な雰囲気もまとう。それが、カノンのなかの皆城総士というイメージだった。
 そもそも、指揮官とパイロットとして過ごした時間とて、短かったのだ。互いを知るにはあまりにも時間がなさすぎた。
 それでも、今の総士は、以前の総士とすこしちがう、と、そうおもう。
 どこまでも生真面目な物言いに、自然と笑えてしまうほど、総士のまとっている雰囲気がやわらかい。むっとした顔も少年らしいそれだった。
 ――ああ、もしかしたら、わたしがこの島に馴染み始めたころ、みんなはわたしのこと、こんなふうに思ったんだろうか。
 命令に従い、自分の意志などどこにもなかった。自分など、どこにもいなかった。いなくなればいいと、思っていた。あのころのカノンが今のカノンを見たら、どう思うだろう。総士も、おなじような思いを、持つのではないだろうか。
 ふと頬を緩め、カノンは肩を竦めた。
「お前に担当を割り当てたのは、私ではなく剣司だ。お前には合っている、と言っていたが」
「合っている…かどうかはわからないが…、BGMはクラシックにしたいのだろう? 剣司は、僕の家にクラッシックのライブラリがあるのを知っている」
「そんなもの…あるのか?」
「いち個人の…父の、趣味の範囲内だがな。それなりに、数は多い。僕もすべてを把握はしていないんだ。だから、以前書き留めてあったリストを再確認している。データがあればよかったんだが、あれで父は…手書きも好んでいたから」
 す、っと、総士の灰色のひとみがカノンから逸らされ、どこか遠くを見るようにまたたいた。
 そうか、総士にも親がいて、家があったのだ。
 あたりまえのことに、いまさら思い至る。そういえばいつだったか――総士が帰って来る前に、剣司たちが総士の家の草取りに行くんだ、と、言っていたことがあった。「ほんとうは家のなかも風通しておきたいけど、入るのは憚られるし。せめて外だけでもさ」と。そのときはじめて、カノンは総士の家があることを知ったのだ。カノンは所用で手伝うことはできなかったのだが、目が見えないながらに、一騎も参加していたことを思い出す。アルヴィスの総士の部屋をそのままで残しておいたのとおなじように、いつ総士が帰ってきてもいいように、家のほうもきれいにしておきたい、というのは、皆の想いだったのだろう。
 カノンが知っている総士の家族、というのは、以前のコアであった皆城乙姫だけだ。かつてアルヴィス司令として島のトップにいたという総士の父のことを、詳しくは知らない。フェストゥムが島に侵攻してきた日に、亡くなったのだという、それだけを聞いている。
 しかしこの島を率いていた、そんなひとであっても、「趣味」で「音楽」をたのしんでいたのか、と、カノンはおもう。
 音楽、クラシック――そこでふと、カノンはきづいた。
「カノン…、というのは、クラシック音楽のひとつ…なのか?」
 無意識にこぼれた言葉だった。総士が目を瞬かせ、カノンは、はっとする。
「あ、いや、その…」
「――そっか、カノンの名前の意味って、音楽の一種だって言ってたよな」
 タイミングがいいのか、悪いのか、焼き上がったケーキをトレーに乗せた一騎がカウンターの前まで戻ってきてにこやかに言った。ふんわりとあまいにおいが鼻腔をくすぐるとともに、なんとも恥ずかしいきもちになる。自分のなまえのこと、なんて、あれ以来、口にしたことはなかったのに。思わず総士に訊いてしまったことも、一騎がおぼえていてくれたことも、面映ゆい。
 総士は、ああそうか、と、合点がいったようにうなずく。
「カノンというのは、クラシック音楽に限定されたものではない。正確には、カノン様式という、演奏様式のひとつだ。基本的には、主題となるひとつの旋律を、複数のパートが追唱していく。輪唱といえば、わかりやすいか?」
「あー、えっと、カエルの歌みたいな?」
「まぁ、簡単に言えばそうだ」
 カエルの歌って、なんだ。カノンが話についていけないことに気づいたらしい一騎が、あのな、と、カエルの歌をみじかく口ずさむものの、いまいち、わからない。
「一騎、ひとりで歌っても輪唱にはならない」
「じゃあお前が歌えばいいだろ」
「僕は歌わない」
 そうではなく、と、総士は話題を変えるように、これみよがしに咳払いをする。
「カノン様式を用いたクラシック音楽で有名なのは、パッヘルベルの『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』だ。パッヘルベルのカノンと呼ばれて親しまれたために、この曲こそがカノンという名前だと勘違いされている。かつての日本では式典でよく用いられたようだが、元は西洋音楽だ。カノンの出身を考えれば、君の母さんは、この曲を聴いたことがあったのかもしれないな」
 母親が名付けたとなぜ知っているのだろう、と、疑問に思ったが、総士は一騎とカノンのあのときの会話を聞いているのだ。そう自覚するとなおさらむずむずとする。だが、初めて自分のなまえと、母が着想を得たかもしれない音楽が結びついて、なんだかたからものを探し当てたようなきもちになった。
「総士、それ、お前んちにあるのか?」
「あるだろうな」
「じゃあ聴かせてもらったらいいんじゃないのか?」
「えっ」
 思ってもみない一騎の提案に、カノンはおもわず声を上げた。一方総士は、そうだな、と、特に躊躇うでもなくうなずいている。
「い、いやしかし…迷惑じゃないのか…?」
 こんな、いきなり、と、尻すぼみになりながら言えば、総士はちいさくほほえんだ。
「構わない。ついでに、BGMを決めるのを手伝ってくれれば、助かる」
「ほんとうに…いいのか…?」
「ああ」
 ふわ、と、カノンはからだの体温があがるのを感じる。うれしい。口がむずむずとゆるんだ。
「ありがとう…!」と礼を言えば、総士がすこし居心地悪そうに「いや」と言い、照れ隠しでもするように、コーヒーをくちもとへ運んだ。


        *


 総士の家は一騎の家などと同じ西坂に面している。
 坂道をかなり登ってたどりついた先には、島に多い和風の石垣やコンクリート塀とは異なる、煉瓦積みの塀と洋風の門扉があった。鍵を開けて門のなかへ入れば、要道場の和風庭園ほどではないものの、それなりの広さをもった庭と、二階建ての洋風の家がある。家、というよりは、邸、と表現するのが正しいかもしれない。カノンの暮らす羽佐間家も洋風の建物だが、こちらのほうが一回り以上は大きい。
 アーカディアンプロジェクトの中心的な人物であり、アルヴィス司令であった父と、島の研究者のなかで中心的な存在であった母と、島のコアであった妹――島の中枢を担ってきた者の家と考えれば、他のどの家よりも豪奢なつくりに納得がいく。
 総士はここで暮らしてはいないものの、ときどき風を通したり、掃除をしたりはするらしく、空き家とは言え、家の外も中も、きれいに整理されていた。
「ちいさいころよく来てたけど、目が見えるようになってからは、初めてだ」
 一緒に行く、とついてきた一騎が玄関でなつかしそうに目を細めるのを横目に、カノンはどきどきとしながら靴を脱いだ。島で暮らすなかで、誰かの家に上がるというのは初めてではない。咲良の家にはよくお見舞いに行っていたし、真矢の家で食事をしたこともある。しかしまさか、総士の家に来ることになるとは思ってもいなかったのだ。
 きれいに保たれてはいるが、やはり、人が暮らしていないせいか、ひんやりとしていて、生活のにおいがしない。先に奥へ入って行った総士が、「寒いだろう、書斎なら暖房がある」と階段を上りながら手招いた。

 ゆるく螺旋を描いた階段を上った先、招かれるまま入った書斎には、壁一面に配置された本棚に、びっしりと本が並んでいた。重厚なつくりの机が窓際にぽつんと置かれているほかは、何もない。
 総士はさらにその部屋の奥の扉を開けた。そこには書斎と同じような棚が並んでいたが、中身はすべて、CDらしい。ソファがひとつとスピーカーが置いてあるのが見え、ここで音楽を聴いていたのだということが知れる。じんわりと足元が温かくなってきたのは、総士が床暖房を入れてくれたらしかった。
「こんなところ、あったんだな…」
 一騎が感心したように言えば、「お前は興味がないから、覚えていないんだろう」と総士は苦笑して肩を竦める。
「入ったことはあるはずだ。ちいさいころ、書斎で父さんたちが話し込んでいる隙に、ここに入りこんで遊んだことがある」
「そうだっけ…、遊んだことは覚えてても、どんな部屋だったかなんて、ちゃんと見てなかったもんな」
「ふたりはほんとうに…昔から仲が良かったんだな」
「ああ、父さんたちが仲良かった…っていうか、仕事のことでしょっちゅう会ってたから」
「今思えばアルヴィスのことだったんだよな」と肩を竦める一騎のとなりで、総士が「そうだな」と苦笑する。
 幼いころのことは話には聞いていたし、実際、過ごして来た短い時間のなかでも、お互いがお互いの存在を大事にしていることは伝わってきた。特に、総士のいなかった二年間の一騎をおもえば、今の一騎は、総士が帰ってきたことでずいぶんと明るくなったし、どこかへ行ってしまいそうな、そんな不安定さはすっかり消えている。
 カノンはそれがうれしかった。総士の雰囲気も以前よりやわらいでいるから、なおさらだ。
 蒼穹作戦が終わったあと、二年間の平和な時間もカノンにとっては大事だが、総士が帰り、みんながこころ穏やかに過ごしている今が、とても好ましい。だからかもしれない。穏やかな心地で日々を過ごし、将来というものを考えるようになって、不意に、カノンという名のその意味を、思い出したのかもしれなかった。
「クラシックの定番は、だいたい揃っているはずなんだが…」
 総士が棚にならんだCDケースのタイトルを、素早く指先で追っていく。ふたつめの棚に差し掛かったところで「あ」とちいさく声が上がった。
「これだな」
 差し出されたのは、西洋らしい、どこかの街並みが描かれたジャケット。カノンの暮らした街とはちがう。けれどどこか懐かしさを覚えるそれに、緊張でふるえる手を伸ばした。ちいさな窓からさしこむオレンジ色の陽に照らされた絵の上に、「Canon」の文字がある。

 ――カノン。

 指先で、そっと、それをなぞる。
「…聴いて、みるか?」
 すこしだけ、こわかった。
 今までずっと、触れる機会もなく、こころの奥にしまってきたものを開けるこわさ。
 けれど――触れてみたい。知りたい。
「…ああ、頼む」
 静かな総士の問いにうなずき、CDを渡す。ただ曲を聴くだけなのに、緊張する。いや、そういえば、こうして何かの曲を意識して聴くという行為すら、カノンにとっては初めてかも知れなかった。どこかの店や、テレビから流れてくる音楽を無意識に耳にしてはいたけれど、それはかつて生まれ育った街角で聴いていた音楽の切れ端とおなじように、自分からは遠いどこかを、すっと通り過ぎてしまうようなものだったから。
 ぎゅっと両手を握りしめ、すう、と、覚悟を決めるように息を吸う。
 スピーカーから、かすかな音が、流れ始める。

 ――なめらかで、しずかな、…これは、ヴァイオリンの音だ。

 ひとつだった音色に、ふたつ、みっつと、次々、音が重なっていく。
 くりかえされる旋律。ずれながら重なっていく音色。からみあい、次第に高まっていく音。
 厳かでせつなくて、けれどなにかを言祝ぐようにあかるく…ひかりふる、朝のよう。花の咲く、春のよう。ぶわりと芽吹く、なにか。

 ――少しずつ、生まれ変わる、そういう音楽よ。

 遠い母の声が聞こえる。
 すこしずつ、すこしずつ、新しいものになっていく。おなじ旋律でありながら、音色は生まれ変わる。
 息をするように、跳ねるように、語るように。

 ――知ってる。

 知ってる。この音をわたしは、知っている。
 ――母さんの、子守歌だ。
 ゆっくりと、切れ端だけ、つむがれていたメロディ。
 カノン、だったのだ。
 あれは、母が歌っていたのは、カノンだったのだ。

 ――生まれ変わっていく、わたしの、音楽。
 
 カノン、と、そう呼んだのは一騎だったのか、総士だったのか。ふたりともだったのかもしれない。
 視界がきらきらとまたたいている。茜色ににじんでいる。初めて、目を開けたとき、名を与えられたとき、母もそうやって呼んでくれたのだろうか。このうつくしい音色をこどもに与え、言祝ぎ、カノン、と。
 この世界に生まれ落ちて、どんな困難が待っているとしても、どれほど苦しい時代を生きることになったとしても、あきらめないで。生きて。たとえ自分を見失っても、つらくて歩めなくなっても、あなたはきっと生まれ変われる。すこしずつ、すこしずつ、前へすすんで――。

「カノン」

 今度こそ、それはちゃんと、一騎の声だと判別できた。どうしていいかわからない、という顔で、けれど心配そうにのぞきこんでくる榛色のひとみに、ふるふると首を横に振ると、ひとみから零れた雫が舞った。ちがう、かなしいんじゃない、そうじゃ、なくて。言いたいのに、ことばにならない。
「一騎」
 ほら、と、そう言って総士が一騎に渡したものを、一騎がカノンに手渡してくる。清潔そうな真っ白なハンカチに、カノンは「ありがとう」とちいさく礼を言って顔を押し付けた。しばらくそうしていると、徐々に涙がおさまってくる。
 顔を上げると、おろおろとする一騎と、何とも言えない顔でそわそわしている総士がいた。それがおかしくて、ちょっと笑ってしまう。途端、安心したような顔をするものだから、余計におかしい。
「…すまない。大丈夫だ。とても…、とても、うれしかったんだ」
 どう、このきもちを伝えればいいのかわからない。けれど、聞いてほしい。大きく深呼吸して、言葉を探す。
「ずっとむかしの記憶だ…、母さんが、眠る前に口ずさんでいたのが、この曲だった…そう、思い出したんだ…。会えたんだ、やっと…、ちゃんと、自分の音楽に。それがとても…うれしい」
「お前の…、カノンの母さんて、どんなひとだったんだ?」
 話をしよう、と、そう言ったあのときのように一騎がたずねてくる。やわらかな声色にうながされ、「やさしいひとだった」と、おさない自分をだきしめたぬくもりを思い出す。
「ほんとうにちいさいころの記憶しかなくて…たくさんのことを、覚えているわけじゃないんだ。でも、やさしくて、あたたかくて、わたしのこの名前を、だいじに、呼んでくれていたんだ。ずっと…、どこかで気にかかっていた。カノンがどんな音楽なのか、母さんは、どんな音楽を聴いて、この名前をつけてくれたんだろうかと。やっとわかった。…ほんとうに、ありがとう、総士」
「いや、僕はなにも…」と総士はすこし視線を彷徨わせたが、「よかったな」と口元を緩めた。
 あたたかでやわらかな空気にさそわれるように、カノンは「よければ、お前たちのことも、聞かせてくれないか」と口にした。
「曲を選びながらでいい。話が、したいんだ。お前たちのことを、知りたい」
 一騎のことも、総士のことも、島のことも、知らないことはまだたくさんある。重なっていくあの音色のように、ひとと出逢い、会話し、選び、そうして生まれ変わっていくことをよろこびたい。
 夢を持ってくれることがうれしいのだと、だから生き延びてほしいのだと、そう言った、今のカノンの母のねがいも、母の口から直接聞いてみたい。
 自分のはじまりを知れた今ならば、思いもしなかった自分の未来を、「やりたいこと」を、考えられる気がする。
 一騎は総士と顔を見合わせ、「そういうの、得意じゃないけど」と困ったように笑って、「善処する」とまじめな顔で総士が言った。



 変わっていく。少しずつ、すこしずつ、重なり合って生まれ変わっていく。
 カノン。
 呼ばれたなまえに、笑顔を向けた。