ひとさらの こうふく

「水鏡?」
 聞き覚えはあるけれど、あまり呼ばれ慣れてはいない声が耳に届いて、美三香は目をぱちくりと瞬かせながら顔を上げた。
 朝の漁港には、澄んだ空気のなかで大きくひびく声がたくさん飛び交っている。陽も明けきらぬころから漁に出ていた漁船がつぎつぎに港へ帰ってきては、採れたての魚が水揚げされ、ちいさな市場へ運ばれていく。ひとの口へ入るもののほとんどがアルヴィス内部の食糧プラントでつくられている竜宮島において、外から得られる唯一のたべものが魚介類だった。海で獲れる幸は、停泊地点の海域の気候や海流に左右されやすい。ままならない自然のなかでもたらされる恵みを得ることは、島ができるずっと前からの変わらない営みであり、それが誇らしいのだと母はよく言っている。だから美三香は、母の獲る魚がだいすきだったし、このがやがやとした漁港の雰囲気もすきだった。
 しかし、夏休みの宿題をするには些かうるさすぎたかもしれない、と、おもいながらぼんやり単語カードをめくっていたところに、場違いなほど涼やかな声がひびいたのだ。
 美三香を呼んだ声は、真夏に喉をすべってゆく清涼飲料水のように涼やかで低く、怜悧なようでどこかやわらかい。見上げた先で、海から流れてくる風に、男のひとにしてはなかなか珍しい長い亜麻色の髪が揺れていた。
「そ…、うし、せんぱい?」
 思わず手にしていた単語カードを落としそうになりながら、美三香は目を瞬かせる。たどたどしい呼び方になってしまったのは仕方がない。そのひととの面識はほとんどなく、しかし、彼は島の中で知らぬものなどいない有名人だった。
 実質的に島のトップであった皆城家の長子で、おさないころからアルヴィスの中枢にいて、かつて激しい戦闘がおこなわれていたころにはジークフリード・システムに搭乗する戦闘指揮官であって、この島のコアの家族で――一年前、フェストゥムの側から帰ってきたという、特殊な体験を持つひと。同級生の女の子たちが、「ハードル高い」などとぼやきながらも、「目の保養」と憧れのまなざしを向けている、五つ年上の先輩。皆城総士。それが彼の名だった。
 間近で見たことは何度かある。中学校に入っておこなわれた、次世代パイロット育成の一環と称した検査や、アルヴィス内部の見学など、学外のカリキュラムにおいて、総士は必ずといっていいほど場を取り仕切ったり説明役を買って出たりしていた。また、美三香の通う竜宮島学園は中等部と高等部が併設されているため、学校内でなんらかの行事があれば、顔を合わせることもある。自由な校風で、能力のあるものにはそれ相応の教育をほどこし、個性を伸ばすことを重視している学校であるためか、高等部との垣根はゆるい。頭のいい同級生の鏑木彗などは、ときどき高等部の授業に混じっているくらいだし、運動能力がずば抜けて高い――と評されるが自覚はない――美三香自身も、高等部の生徒と一緒に体育の授業を受けることがままある。
 そんなわけで、美三香にとっての総士は、「プロフィールはよく知っているし見たこともあるけど、特に親しいわけでもない先輩」という立ち位置であった。
 そんな彼が、どうしてこんなところにいるんだろう、と、美三香は首を傾げる。こう言ってはなんだが、早朝の、真夏の漁港に用事があるようなひとには見えない。
 総士は、女の子が羨ましがりそうなくらい色白の肌に浮かんだ汗を拭いながら、「みかが…、ああ、いや、君のお母さんはいるか?」と言った。まだ朝早い時間帯とはいえ、すっかり日は昇っている。どこから歩いてきたのかはわからないが、いつも涼しそうな横顔をしているひとでも、汗のひとつくらいかくだろう。そうおもいながら「お母さんなら、いますけど…」と頷けば、総士はひとつ、大きな息を吐いた。ため息かとおもったが、呼吸を整えようとしただけらしい。
「呼んできてもらえるだろうか。楽園から、注文が入っているはずなんだが…」
 らくえん。口に出してつぶやいて、美三香はようやっと、総士が肩からさげているクーラーボックスに気がついた。ああそういうことか、と、合点がいく。
「ちょっと待っててください!」
 腰をおろしていた運搬用の籠のうえからぴょんと飛び降りて、美三香はおおきな声で、市場にいる母を呼んだ。


「まさか、総士くんが来るとはおもわなかったよ」
 おもしろそうに笑いながら、美三香の母は活きの良い採れたての鯖を、総士の持ってきたクーラーボックスに、氷とともに流し込んだ。
「一騎くんは?店かい?」
「いえ、朝は、アルヴィスで軽い検査があるので…、僕が代わりに。ランチの仕込みまでには出てくるはずです」
「そうなのかい。今日は久しぶりに美三香といっしょに行こうかとおもってたんだ。カレー以外のランチもつくってみようって、試行錯誤してんだろ?」
「ええ、そのようです」
 ああ、そういえば、今日のお昼は外に食べに行こうって、お母さん言ってたな。楽園のことだったのか、と、美三香は家での母との会話を思い出して納得する。
 喫茶楽園は、竜宮島で唯一の喫茶店だ。昼から夜にかけて営業していて、昼間のあいだは主にアルバイトである真壁一騎が店を回している。彼もまた総士と同じくらいに島の有名人であり、校内での人気も高い先輩だ。夏休みに入ってからというもの、彼を近くで見たいとか、彼の手料理が食べたいとか、そういう理由で楽園に通う同級生たちがいるのを美三香は知っている。美三香も何度かランチをしに行ったことがあるけれど、一騎のつくるカレーは絶品だった。学園の生徒会のメンバーなどは、生徒会室よりも楽園で長居をしながら会議や作業をしていることが多いらしい。夜はアルコールも出すような店だけれど、昼間は主に、学生たちのたまり場になっているという印象だ。一騎だけでなく、彼らと同級生である遠見真矢もアルバイトをしているし、最近になって、西尾暉もちょくちょく手伝いに入るようになったという。美三香の同級生である零央も、父親のつくるデザートをときどき配達するのに出入りしているらしい。
 ――そういえば、総士先輩は、べつに楽園のアルバイトでもなんでもなかったような…。
 ぼんやりそう思っているところで、「それでは、僕はこれで」とクーラーボックスを肩にかついで去ろうとした総士が、ぐっと腕に力を入れて――止まった。何とも言えない顔をしたあと、もう一度、氷と魚でいっぱいになったそれを持ち上げようとして、わずかに地面からクーラーボックスが浮いたものの、おもいっきり、よろめく。
「っ、ははは!ああ、ごめんごめん、一騎くんと同じようになんも考えずに入れちまったけど、あんたには荷が重かったね!」
 豪快に笑い出した母に、総士は「いや、その、」と言いながらなんとも気まずそうな顔をして、顔を赤くしている。なんとも珍しい表情に、美三香はおもわず目を瞬かせる。
「一騎くんやうちの美三香だと、これくらい、ひょいっと担いじまうからさ」
 確かに、美三香からすれば、クーラーボックスのひとつやふたつ、そんなに重たいものだろうか、と、思える。気になったので、「すみません」と一言断って、総士の担ごうとしていたものを持ってみる。あれ、なんだ、ふつうに持てる。きょとんとした顔をして、今まで自分が苦戦していた重い荷物をさげてしまった美三香を前に、総士は唖然としている。そうして、「ああ、そうか、きみも一騎と同じだったな…」などとぶつぶつ言っている。
「美三香、あんたがよければ、この荷物、楽園まで運んできてくれないか?」
「えっ」
 母の提案に、声を上げたのは美三香ではなく総士だった。「そんな、申し訳ないです」と困ったような顔をしているが、実際のところ、それ以外に魚を新鮮なうちに楽園に届ける方法はないだろう。
「総士先輩、わたし、特に用事ありませんから、だいじょーぶですよ!」
「だ、そうだ。お礼は、美三香のランチのデザートで手を打とう」
 そこまで言われてしまっては、総士ももう断れなかったのだろう。「ありがとうございます、一騎に言っておきます」と、やっぱり困ったように眉を下げて言った。


          *


 竜宮島は山に添って家々が並んでいるために、坂道が多い。美三香が暮らす家は海岸沿いにあるが、竜宮島学園は島のなかでも高い位置にあるため、毎日心臓破りの階段や坂をのぼって通学しなければならない。だがそれも、美三香にとっては何の苦もないものだった。
 昔から足は速かったし、力持ちだねとも言われてきた。毎日どれだけ遊び尽くしても、疲れるということを知らなかったし、筋肉痛なんてものとも無縁だった。それがいわゆるサヴァン症候群によるものなのだということは知っている。この島のこどもたちには、メモリージングというものが施されていて、年齢が上がるにつれ、島や、島の外の情報が徐々に開示されていく。
 美三香たちより上の世代は、中学校を卒業するまで一切の情報が制限されていたらしい。美三香も、あの日――きんいろのひかりをまとった敵が島に訪れる日まで、なにもしらないこどもだった。大きな戦闘が何度もくりかえされていたけれど、警報が鳴るたび、学校をとびだしていくパイロットたちを横目に、美三香たち非戦闘員は地下シェルターへ避難していたために、外でいったい何が起きているのかは、詳しく知らずに時が過ぎた。
 ときどき、家に帰ると、母がなんとも言えない顔をして、真っ黒な服を着ていたことがある。そういう日は、島の上のほうにある白い建物から、おなじような格好をしたおとなたちが、母とおなじような顔をして、だまって出てくるのを目にしたものだった。すこしだけ成長した今は、あれが、戦闘で亡くなったものを悼む葬送だったのだ、と、わかる。
 蒼穹作戦と呼ばれるものが終わり、島は二年間、平和なときを刻んだ。そのなかで、こどもたちは、自らが望んで、メモリージングの解放を早めた。そのなかで美三香も、自分の並外れているらしい身体能力が、遺伝子によるものだ、ということを知ったのだ。だからといって生活は大きく変わりはしなかったし、少し上の先輩たちがパイロット候補生に選ばれて訓練に入るのだと聞いても、どことなく他人事のように感じていた。
 そうして二年が過ぎたころ、島は再び、戦時下に置かれた。
 このときも美三香は、非戦闘員でしかなかった。島のあちこちが被害を受けて、新しく選ばれたパイロットたちが戦うのを、モニター越しに見るしかなかった。けれど、昔とちがってすこしだけ島や外の知識を得ていた美三香は初めて、こわい、と、そうおもったのだ。戦ってくれるひとがいるから、自分は守られている。安全なばしょで、母にすがって、震えていることができる。だけど先輩たちは――あそこで戦っているひとたちは、どれほどおそろしいおもいを、しているんだろう。 
 いつか自分も、あそこに立つ日がくるのかもしれない。
 それを初めて美三香は、自分のこころのなかに、おもいうかべた。
 きっとそれはこわいことだ。おそろしいことだ。けれど――でも、もしも自分にちからがあるのなら、母やみんなを守るちからがあるのなら、だいすきな漫画のなかの主人公みたいに、わたしだって、戦いたい。守りたい。だって、たいせつなひとたちがいなくなるなんて、そんなのは、いやだ。――見たくない。
 そうおもった。


 ――あれから島はふたたび平和をとりもどし、フェストゥムの襲来もなく、おだやかな日々が過ぎている。
 小さな波の音を聞きながら、風に揺れる髪をときどき指先ではらって歩く真横にいるひとも、こうして見ると、たくさんのファフナーを指揮する戦闘指揮官だなんてことは、忘れてしまいそうなくらい、しずかで、おだやかだ。それでもきっと、その灰色のひとみは、美三香の知らないものを、たくさん見てきたのだろう。
 市場から、楽園までの道のりは平坦だ。そのかわり、日陰になりそうなものもない。ふう、と、ちいさく息を吐く総士は、「いいですよぉ」と美三香が断ったにもかかわらず、クーラーボックスの取っ手の片方を持ってくれている。つまり、ひとつの箱をふたりで持っている状態だ。
 ――こんなの、総士先輩がすきな子たちに見られたら、何か言われそうだなぁ。
 それにしたって、なんて白いひとだろう、と、美三香はおもいながら横目で総士を見る。美三香より背はずいぶんと高いし、細身ではあるけれども、ひょろっとしているわけでもない。こういうのを、無駄な筋肉がついていない、と言うのかもしれない。しかしどちらかと言えばインドアなのだろう。日に当たらないから、肌が焼けていないんじゃないだろうか。
「総士先輩って、あんまり外、出ないんですか?」
「外? ああ…、まぁ、特に夏は…得意ではないな」
「やっぱり。だから白いんですね」
 思ったままを口にすれば、「白…?」と、総士が首をかしげる。もしかしてこのひと、自覚がないんだろうか。
「白いですよぉ。わたしはほら、いっぱい外に出るから、夏はすーぐ焼けちゃうんです。クラスメイトの子はみんな日焼けするの気にして、夏休みはこもりがちなんですけど、こんなにいい天気なのに、もったいないじゃないですか」
 そこでやっと総士は、自分の肌が白いと言われていることに思い至ったらしい。ああ、なるほど、と、神妙な顔でうなずいている。
「一騎にも、よく言われる。地下にいないで、外に出ろと」
 地下、というと、アルヴィスだろうか。そういえばこのひとは、学校に通いながらおとなたちに混じってアルヴィスでの業務もこなしていると聞く。夏休みともなれば、そちらにかかりっきりなのかもしれない。
 それにしても、さきほどから総士の口から出るのは「一騎」の名前ばかりだ。それもするっと自然に出てくる。総士のまわりにはいつも誰かしら先輩たちがいるイメージで、ことさら一騎だけが隣にいるわけではないと思うのだが、楽園の食材を取りにくるところからしても、仲が良いのだろう。
 そういえば、中等部と高等部が合同で行事をおこなうとき、稀に、生徒が混じり合って五十音順にならぶことがある。そのとき美三香は零央といっしょに、一騎と総士のあいだに入ることになる。「みかがみ」と「みかど」だから、「まかべ」と「みなしろ」のちょうどあいだになるのだ。号令がかかる直前まで、一騎は総士のところにいて、「さっさと戻って並べ」と言われているのを何度か目にしている。
「総士先輩と一騎先輩って、仲良しなんですね」
 かたん、と、総士と美三香のあいだにあるクーラーボックスが、なぜか跳ねた。どうしたんだろう、何かに躓いたのかな、と、特に気に留めないで、美三香は言葉を続ける。
「だって総士先輩、楽園のアルバイトしてるわけじゃないですよね。今日代わりに取りに来たのって、頼まれたからですよね?」
「あ、ああ…。まぁな…」
「いいなぁ。わたし、一騎先輩ってちょっと目標なんです。あ、仲良しの零央ちゃんもそうらしいんですけど、一騎先輩って、いろいろ伝説持ってるじゃないですか。海野球でバッド握るとホームランしか打たないとか、運動会の短距離走で未だに誰も記録を破れない、とか。まだ私も、一騎先輩の記録を抜いたことないんです。いつか絶対追いつきたいんですよ!」
 美三香の言葉に、総士はひとつ目を瞬かせたあと、そうか、と、やわらかくほほえんだ。見たことがないくらいやさしい顔だった。おどろいて見つめている美三香に気づかず、総士は、「ああ、もうすぐだな」と視線を前に向ける。すぐ先に、喫茶楽園の特徴的な建物が見えていた。


          *


「あれ?総士?」
 からん、と、ドアベルを鳴らして入った先には、意外にも、総士におつかいを頼んだ人物が、エプロンの紐を結ぼうと背に腕を回した格好で立っていた。
 外の蒸し暑さと比べればいくらかましだが、店内にもまだ、じっとりとした暑さが漂っている。わずかに冷風が観葉植物を揺らしているのは、冷房をかけたばかりだからなのだろう。
「お前、どうしたんだ。随分早いな」
 総士の問いに、「思ったよりすぐ終わったんだよ」と一騎が応える。アルヴィスでの検査、というものがどういうものなのか、美三香はよくわからない。パイロット適性の診断として健康診断のようなものを受けたことはあるけれど、現にパイロットである先輩たちは、ファフナーに搭乗することで発症する同化現象に関する検査を受けるはずだ。美三香にとっては同化現象という言葉も、まだ実感を伴ったものではない。
 ただ、目の前でエプロンを身につけ、やわらかな顔で笑うひとが、つい一年ほど前まで同化現象によって視力のほとんどを失っていたことは知っていたし、かつてない身体能力で数々の新記録を塗り替えていったこのひとが、杖なしでは歩けない状態にまで陥っていたことも、知っていた。――どれもみな、美三香の日常からはほど遠く、今もまだ、ゆめものがたりのようにしか捉えきれない話だ。
「もしかして、総士ひとりじゃ持てなかったのか?」
「…癪だがご名答だ」
「ごめんな、水鏡。ありがとうな」
「いいえ~!これくらい、なんてことないですよぉ」
 目を細めて笑う一騎に、ほんとうにこのひとの笑顔ってかわいいんだなぁ、と、美三香は思いながらふるふると首を横に振った。一騎ともあまり話したことはないのだが、高校の体育に混じったとき、何度か一緒に走ったことがあるし、並外れた身体能力、という点において比較されることが多いので、総士よりは親しみのある存在だ。美三香の同級生たちは、この一騎の笑顔がお気に召しているらしい。いや、同級生に限らず、喫茶楽園の常連になるような子たちはみな、「笑顔がすっごいかわいい」「でもときどきしか見られない」などと盛り上がっている。
 ときどきしか見られないものを、見てしまったなぁと思いながら、美三香は総士と一緒に抱えていたクーラーボックスを厨房の作業台に置いた。一騎はさっそくボックスを開けて中身を見ると、「活きがいいな」と頬を緩めている。母たちが獲ったものを褒められるといい気分だ。へへ、と笑顔になりながら、美三香は初めて入る楽園の厨房をぐるりと見回してみた。純和風の美三香の家の台所とはちがう、木目調の落ち着いた洋風の内装。広くて、見慣れない大きな鍋や冷蔵庫、種類の豊富な調理器具に、ありとあらゆる調味料がならんでいる。
 デザートを配達している零央が「こないだ、一騎さんが調理するの見せてもらったんだ」と、好敵手を見つけたときのような、楽しそうな顔で言っていたのを思い出した。手際が良くて、見ていてきもちよかった、と。
 零央の家は和菓子も洋菓子も手掛ける店だ。からだを動かすことが好きで要道場に足しげく通っている零央は、しかし一方で、父親を手伝って菓子作りをするのも好きなようで、よく自分のつくったものを美三香にお裾分けしてくれる。そんな零央からすれば、身体能力も高く、調理の腕も確かな一騎は、あこがれなのだろう。
「水鏡は自分で魚、さばけるのか?」
「へ?」
 ぼんやりとあたりを見ていた美三香は、一騎に唐突に質問されて反応が遅れる。魚。さばけるか。いつの間にやら一騎は魚用の包丁を構え、まな板の上に、まだ僅かに尻尾を跳ねさせる鯖を押し付けている。総士は興味津々といったようすで――しかしなぜか少し遠巻きにその手元を見ている。
「あ…えっと、一応…できますけど…」
「もし時間があるようなら、手伝ってくれるか?意外に量が多くてさ。今日、暉も遠見も遅く来る予定で…、魚を運んでもらったお礼とはべつに、ランチ、俺が奢るから」
 総士はアテにならないから、と、さらりと言った一騎の横で、「なんだと?」と総士が顔を顰める。「いや、だって、魚おろしたことないだろ」と一騎が言えば、む、と、口を噤んでしまった。
 ――なんだろう。このふたりって、こんな感じ、だったろうか。
 もっとこう――近寄りがたい存在だったはずなのだが、そんなイメージがじわじわ崩れている。特に総士は。
 美三香はぱちぱち目を瞬かせ、時計を見た。ランチの時間までまだだいぶある。どのみちここへ食べにくる予定だったのだし、特に用事はない。母には、昼までここにいると連絡させてもらえばいいだろう。それに、一騎の手さばきを見たと言えば、零央にちょっと自慢できるかもしれない。美三香はぐっと手を握り、「お手伝いします!」と元気良く返事をした。


 美三香はせっせと鯖の鱗をそぎ、頭と内臓を取る。そして総士がおそるおそる洗って水気を拭きとったものを、一騎が手際よくさばく。総士が「僕も何か手伝う」と申し出たことによって成り立った流れ作業は、意外にもスムーズにすすんだ。
「水鏡の家って、やっぱり魚料理が多いのか?」
「はい!ほとんど毎日、お母さんが獲った魚を持って帰ってくれるので」
「そっか。うちもさ、父さんが和食好きだし酒飲みだから、魚けっこう使うんだ」
「今日のメニューって和風なんですか?」
「いや、洋風の味付けでムニエルにしようかなって。溝口さんから、喫茶店で和食はコンセプトに反するって言われて」
「…そもそもここにコンセプトなんてものがあるのか?」
「釣り具があるのに魚のメニューがないのはおかしい、ってよくわからない理由で魚料理を作れって言われるくらい適当なのにな」
 さくさくとおろした鯖を積み重ねながら、一騎も総士もよく喋った。校内でときどき見かけるふたりの雰囲気や、戦闘指揮官とエースパイロットというイメージからすると、そんなにお喋りではなさそうだったのに、ふつうに話しやすい。
 そう思いながら美三香はちらりと隣の総士を見やった。最初は覚束ない手つきで鯖のはらわたを洗っていたが、徐々に慣れてきたようすで、手際が良くなっている。
「総士先輩、って、料理するんですか?」
 ふと気になってたずねると、「できないことはない」というなんとも曖昧な答えがかえってきた。
「普段はアルヴィスの食堂か、ここですませてしまうからな」
 ――ああそういえば、総士先輩って、ひとりなんだ。
 島というのは狭いコミュニティだ。ましてやこの島は、生き残った日本人と、わずかに外から来た元人類軍が、ひとつの目的のもとに集まった特殊な島であるがゆえに、互いの顔や家族構成などは往々にして把握しあっている。加えて、総士は島のなかでも目立つ存在だ。母も父も、かつてこの島のコアであった妹も、もうすでにいない。それはなんとなく知っていた。
 けれど、普段の総士があまりにも自立していて、まるでおとなのように振る舞っているせいなのか、それとも皆城総士というその名前と特殊な生い立ちや経歴だけがひとり歩きしているせいなのか、彼の家族や日常生活といった部分はどうにも忘れがちだ。そもそも、美三香たちが触れ得る部分でもない。
 しかし総士だって、美三香たちとおなじように、まだ学生で、おとなではない。
 ――ごはん、ひとりで、たべるのかな。
 それはとっても、さみしい。
 美三香はこういった想像が苦手だ。想像、できないのではない。――したくないのだ。誰かがかなしいおもいや、さみしいおもいをしている。そういうことを知ると、くるしい。美三香たちのいる平和な日常のむこうに、いつ襲ってくるとも知れない脅威があるということをできるだけ忘れていたいのと同じだ。
 思わず手が止まった美三香に、総士が気づき、何かを言おうと口を開いたところで、「お前に作らせるとすぐ定規とか測り持ち出すだろ」と一騎の声がひびく。――定規? それって料理に必要なものだろうか。沈みかけた思考に届いた、料理という行為に不釣り合いな道具の名に美三香は思わず目を瞬かせる。
「料理というのはレシピどおりに作るものだろう」
「だからって〇・一グラムまで細かく測る必要はないと思うぞ」
 むっとして拗ねたような総士の言葉に、一騎は肩を竦めておかしそうに笑う。総士が料理をする場面に立ち会うことがあると暗に知れる会話に美三香が首を傾げていると、「うちに総士が来て、夕飯手伝うことがあるんだけど」と一騎があっさり答えを口にする。
「確かに味はいいんだよ。だけど、材料に定規をあてて均等に切ろうとするし、調味料は細かくきっちり測って入れようとするし、とにかく時間がかかるんだよなぁ…」
「な…、なんだか、総士先輩、らしいですね…?」
 らしい、というのは完全にイメージでしかないのだが、一騎が「そうだな」とくすくす笑ってくれたので、まちがってはいないらしい。総士はなんとも言えない、不満そうな顔をしている。
「おいしいのなら、問題ないだろう」
「料理は手際の良さも大事なんだぞ」
「む…」
 ますます総士の眉間に皺が寄る。思わず、ふは、と、美三香は笑ってしまった。きょとんとした榛と灰の瞳が美三香を見ている。
 近寄りがたくて、校内の人気者で、イメージだけが先行していたひとたちが、こんなに親しみやすくて、ふつうのひとだなんて。あたりまえだ。だってふたりとも、五つ歳が離れていると言ったって、美三香と変わらない学生で、こどもだ。なんだかそれにとても、安心する。非日常にいるふたりだと、どこかで思っていたのかもしれない。けれど彼らにも日常がある。こんなふうに、当たり前に。
「先輩たち、おもしろいですね」
「え」
「は?」
 ふたりは互いに顔を見合わせて、よくわからない、という表情で首を傾げる。それがなんだかかわいらしくて、美三香はもっと笑ってしまった。


 さばいた魚を一騎が手際よく下ごしらえし、あとはランチタイムまで休憩でもしよう、と、いうことになった。
 総士はコーヒー、美三香はメロンフロートを用意され、窓際の席に腰かけた。昼前にメロンフロートなんて贅沢だ、と思いつつ、朝からじゅうぶん働いたご褒美だと、美三香は笑顔でアイスを口に入れる。一騎は食材の在庫を確認すると言ってバックヤードに行っていて不在だ。
 今回は魚をさばく手伝いをしただけだったが、こういうところでアルバイトをするのも、楽しいかも、と、美三香は思う。そしてふと、コーヒーを静かに啜っていたはずの総士の視線が自分に向いていることに気づき、首を傾げた。
「…あの?」
「水鏡…、その、さきほど、僕の発言が何かひっかかったのではないか?」
「あ……」
 戦闘指揮官というひとは、人の機微に敏いのだろうか。すっかり美三香自身も忘れていたことに触れられて、ぽかんと口を開けてしまった。何か引っかかったと、いうわけでは、ない。ただ、勝手に総士がひとりだと思い込んで、勝手にさみしくなってしまった、だけで――。
 それに、もうわかってしまった。このひとは、ひとりきりでいる、わけじゃない。
「その……、総士先輩は、一騎先輩のごはん、好きですか?」
 だから、ただそう聞いた。
「私は好きです。一騎先輩のごはん、お母さんのとはちがうけど、おいしくて、あったかくて、何だかほっとするんです」
 そんなにたくさん、食べたことがあるわけじゃない。けれど美三香は一騎のつくるものに対して、そんなイメージがある。そして今日、やわらかな笑顔で調理する一騎のあの雰囲気を身近で感じて、わかったことがあった。あのひとはきっと、誰かに何かをつくることがすきなのだ。そして食べることもすきなんだろう。特にこのひと――総士といっしょに食べるのが。 
 総士は目を瞬かせて、ふと、口元を緩めた。
「…海の幸は、唯一、この島が外から得られる食料だ。きみのお母さんたちが危険をかえりみず、外の世界へ出てくれなければ、手に入らない。僕だけではなく、この島で暮らすひとびとはみな、そのことに感謝している」
「え…、あ、」
 なんだか、照れくさい。自分が褒められたわけではないのだけど、顔が熱くなった。母が誇りに思っていることを汲み取ってもらえたような気がして、うれしい。
 総士は目を細めて、「他の食材にしても、同じだ」とコーヒーカップをそっと置いた。
「穀類も野菜も、島のバイオスフィア機能が正常に維持されたうえで、プラントに関わる人々がいなければ、育たない。あたりまえのように口にしているものが、多くの人の手を経て自分の元へ届くことを、あいつは…一騎は、感覚で知っている。それはきっと、島の真実を知る前からずっとだ。繰り返されていく、譲っては譲られる、いのちがそこにあるから、食べ物がうまいのだと、あいつはわかっている。うまいとおもうことが、生をつなくことであり、存在の肯定だということを。だからぼくは、あいつのつくるものを食べることで、その循環のなかにいることで、きっと――」
 きっと。
 その先は言葉として空気を震わせることはなかった。
 総士の話はちょっと回りくどくて、難しくて、わかりにくい。美三香の問いの答えになっているようで、なっていない。けれど、なんとなく、美三香にはわかるような気がした。それはきっと、美三香が毎日、母の獲った魚を、母が料理する食事を、おいしく食べて感じているものと、おなじだと思ったからだ。
 食べ物をおいしいと思いながら食べられるのは、こんなふうに、穏やかで平和な日常にいるからだ。美三香はずっとそこにいたい。けれどその日常は、目の前にいるひとや、一騎たちが、戦って苦しんで得たもののうえにある。本当は目を逸らしていたい非日常と、この日常は、地続きだ。ファフナーに乗っている人が、同じ手に包丁を握ってごはんをつくる。
 美三香にはまだ向き合えない、日常と、非日常の、そのはざまで、一騎も総士もあんなふうに笑っている。
 ――だから、ほっとするのだ。おいしいと、あったかいと、おもうのだ。
 今このときのたいせつさを知っているひとが、つくるものだから。
「…難しいことは、わかんないですけど」
 からん、と、メロンソーダのなかに浮かんだ氷が音を立てた。
「私は、一騎先輩のごはんを食べてるときの総士先輩、…一騎先輩のごはんみたいに、いいなっておもいました」
「ごは……、」
 見たことのないくらい、やわらかな笑顔も、おさない表情も、美三香は好ましく思った。このふたりがこうやって、笑っていられる時間が続けばいいなと、そう思う。今日のことは、自分だけの秘密にしよう。ふたりのことを気にしている同級生は知りたいかもしれないけれど、教えてしまうのは、なんだかもったいないような気がするのだ。
 ごはんみたいとは一体どういうことだ、と、総士が混乱しているのに気づきはせず、美三香はへへっと笑う。
「総士、水鏡、もうそろそろ店開ける時間だか……、なんだ?どうした?」
 ひょこりとカウンターの向こうに顔を出した一騎が、うんうんと何やら唸っている総士と、にこにこと笑う美三香を見て首を傾げる。


 今日のメニューは、海から獲れた鯖のムニエルと、島で獲れた野菜のソテー。
 ひとさらのうえに、それぞれの誇りと、幸福がある。