宵を待つころ

「司令、教えていただきたいことがあるのですが」
 定例会議を終えて会議室を出たところで、史彦は背後からかかった声に足を止めた。常日頃と変わらない固い声音は低く、けれど年相応な幼さもまだ幾分か含んでいる。おや、と、思いながら振り向けば、子どもと大人の境界線に立ちつつある顔に感情の読めない表情を貼り付けた皆城総士が立っていた。
 大人が何かを教えるよりも先に知識を得、理解し、咀嚼しきれないものまで呑み込んできた少年が、自分に対して教えを乞うことなど、今まではほとんどなかった。特に、父親を亡くしてからというもの、大人たちと同じ場所に立ち、仲間を守るために、周囲に対し頑なな言動ばかり取っていた少年だ。司令である史彦に対しても一切怯むことなく向かって来た彼が、少しずつ変わり始めたのは三年近くも前、自分の息子――一騎が島を黙って出て行った後からだったと記憶している。その後、総士は自身の肉体を失い、二年もの間、フェストゥムの世界へ行っていた。島へ帰還したのは一年ほど前のことになる。変化を始めていた総士の言動はそれから以後も変わり続け、年相応な面がよく見えるようになった。「最近の総士くんには可愛げがある」と呟いたのは、保だったろうか。
 そんなことを思いながらしげしげと総士の顔を見つめていたからか、無表情に見えていた顔に少しばかり不安そうな色を浮かべ、総士が首を傾げる。
「司令?」
「あ…、ああ、いや、きみが私に教えを乞うなど、珍しいと思ってね」
 思ったままを口にすれば、総士はなんとも複雑な表情を浮かべた。
「過去の僕の物言いが司令に対して生意気なものであったことは、謝罪し反省すべき点ですが、僕は今も昔も、司令のことを蔑ろにしているわけではありません」
 至極真面目な顔で告げられて、史彦は「あ、ああ」と頷きながら少したじろぐ。可愛げは出てきたが、生真面目すぎる一面は変わっていない。しかしまぁ昔に比べれば、こういった会話も噛みあうようになってきたと思う。史彦は小さく微笑んでから、「それで、教えて欲しい事とは何かね」と総士に問い返した。
「灯篭の…作り方を、教えていただきたいんです」
「灯篭?」
 ああそうか、もうすぐ盆祭りだと史彦は思い至った。竜宮島で行われる盆祭りで、死者の霊を悼む灯篭を海へ流すのは恒例行事だ。総士の言う灯篭とはそれのことを指しているのだろう。しかし、総士は過去に灯篭を作ったことがあるはずではなかったか――と思い、はた、と気づく。
「そうか、新しくなってからは作ったことがないのか」
 盆祭り――島ではU計画と呼ばれているそれは、平和という文化を保存するという島の理念に基づいて行われており、年中行事のなかでも特に気合が入っている。灯篭流しとフィナーレの花火には皆、特に思い入れが強い。ましてや灯篭は潮流に乗せて島の外まで流すものということもあって、防衛上、安全性の面からも毎年改良が加えられている。
 思い返せば昨年から、灯篭には家名ではなく個別の名を入れるようになったし、灯すあかりもバイオ式フレアを採用、タイマーまで搭載されるようになった。風習を限りなくそのまま保存する、という面から、作り方が複雑化しても、灯篭は各家庭において用意するのが慣例となっている。材料と作り方の説明書きは配布されるのだが、当初、ただ組み立てれば良いだけのキットとして作成したところ、「プラモデルみたいだなぁ」と称した溝口に対し、情緒を重んじる保がむきになって改良を加えた結果、それなりに手をかけねばならない仕様になってしまったのだ。分かりにくい、とか、年寄りには難しい、とか、それなりに反対意見もあったのだが、「誰かと助け合って作るっていうことも文化保存だ!」と保がねじ伏せた。それはまぁそうかもしれないな、と、史彦は目の前にいる少年を見て改めて納得した。アルヴィスには多くの知識と技術があり、それを扱えるだけの頭脳がこの子どもにはあった。ひとりでなんでもできる、と、思わせてしまうだけの能力があった。けれどそんなものは、本当は、限られた世界の中の話でしかない。
 確かに島にとって必要な力で、彼が選んだ定めの中で生きるには必要な思考だったろうが、亡くなったもののために木と紙で灯篭を作る、という行為には何の役にも立たない。それを今の総士は知っている。エゴだと言われようが、史彦にとってはそれが嬉しかった。
「総士くん、明日の予定は?」
「非常事態が起きない限りは特に何も…、ああ、いえ、昼には楽園に顔を出すように一騎に言われてはいますが」
 夏休みに入って少し経つが、喫茶店でアルバイトをしている息子は相も変わらず、この親友の食事事情にしっかり口を出しているらしい。学校があるほうがいいんだ、あいつがちゃんと規則正しい生活してくれるから、などと夏休みに入る前にぼやいていた。お前は総士くんの保護者か、と言いたいのを史彦はずっと堪えている。一騎が総士の私生活を心配し口を出すことに対し、当の総士が嫌がるそぶりすらも見せないからだ。そこまでする必要はない、と遠慮はしながらも、総士はいつもどこか嬉しそうだった。それが彼らにとって最も自然な在り方なのだから、親であろうとも他人が口を出すことではない。ましてや最近の総士の変化が、その一騎あってこそなのであれば、なおさらだった。
 史彦は肩を竦め、「ならば一騎と一緒に午後からうちへ来なさい」と言った。
「あいつも、去年は灯篭を作っていないからな」


       *


 翌日午後、楽園に寄ってランチを食べた後、一度部屋に帰ってから灯篭の材料一式を持って来た総士を目にして、先に帰宅していた一騎は「多いな」と呟いた。ずっしり、と表現するのが適当であろう手提げ袋は、日焼けしていない白く細い腕が持つには重たげだった。貸しなさい、と、総士を促して史彦はそれを受け取り、やはり重いなと思いつつ中を見る。入っていたのは真壁家にも用意されているのと同じ、切りそろえられた木材と和紙の束だったが、少なくとも三つか四つ分はある。史彦の横から覗き込んだ一騎が目を瞬かせた。
「前はひとつだったよな」
 何でこんなに、と、一騎は首を傾げる。
 総士は「失礼します」と畏まった物言いで敷居と畳の縁を踏まないように居間に入った。この一年で彼が真壁家に来る回数は、両手を二周してもとっくに足りないくらいになっている。すでに勝手知ったる我が家のようなものだろうに、それでも総士は畏まったようすを崩さない。――以前、総士が真壁家で夕食を取って帰った後に、「もっと楽にしてもいいのにな」と口にした史彦に対し、「父さんがいる時は猫かぶっているんだよ」と一騎は言った。
 一騎いわく今日も猫をかぶっているらしい総士は、司令、ありがとうございます、と、アルヴィスにいる時と同じように言って、材料の荷解きを始めながら一騎に答えた。
「多いのは、個別の名前を入れるためだ。以前は家名を入れるのが基本だったから、一世帯であればせいぜい二つまでだったんだ。昨年から個別に名前を入れることが任意で選択できるようになった。もちろん強制ではないから今までどおりにする家もあるだろうし、昨年は皆城家と蔵前家のものをみんなが用意してくれたと聞いている」
「ああ、そういえばそうだっけ…」
 一騎が曖昧に答えたのは、灯篭づくりに参加していなかったせいだ。否、正確に言えば、参加してはいた。しかし、簡単なものとはいえ、木に釘を打ったり、和紙を貼ったりする作業工程は、ほとんど視力を失っていた一騎には難しく、危ないと判断され、そばで見守っていただけだったのだ。家においても同じように、灯篭は史彦がひとりで作った。だから一騎はきちんとその目で見てはいない。
「でも、何で名前を入れることになったんだ?」
 材料を出して並べ始めた総士と史彦に視線は向けずに、台所で麦茶を用意しながら一騎が問う。からから、とガラスコップに氷が跳ねる音がした。問いは史彦と総士のどちらに向けられたものなのか分からなかったが、なんとなく自分の答えるべきところではない気がして、史彦は黙ってちらりと総士を見やる。総士は正しくその視線の意味を理解し、口を開いた。
「今までも個別の名前を入れたいという希望はいくらかあったが、入れることができなかったんだ。自然に亡くなったものならば理由が立つが…、『卒業』していった先輩方のように、亡くなった理由も…、亡くなったことさえも、明らかにすることができない者がたくさんいた」
 当初、島の歴史が始まって間もない頃は、あくまでも文化保存の一環だったように史彦は記憶している。自分たちの世代は、嘗ての日本を知っている。先祖という概念があり、家の名を灯篭に刻んで流すことに違和感はなかった。しかし、この島で暮らし、外的要因によって亡くなるものが増えれば、もうはるか遠い先祖を偲ぶという気持ちより、目の前で亡くなっていく仲間を悼む気持ちが強くなるのは必然だった。ましてや、大人たちが創り上げたこの世界で、戦い、生き残るために送り出したその先で、自らの子どもたちが、自らよりも先に命を落とすようになってからは。
 しかし、島の真実をまだ何も知らない子どもたちに知らせるその時が来るまで、大人たちしか知らない世界で失われていった命の名を、公にすることはできなかった。「卒業」という名目で島を旅立ったことになっている彼らの死を、伏せておくことしかできなかった。多くの親たちは、自らの子を悼み嘆きたい思いを押し殺して生きて来たのだ。
 だからだろうか。未だ外の世界では争いが続いているとはいえ、敵の襲来が遠のき、咲良の同化現象が快方に向かい、昏睡状態にあった一騎が目覚めていた昨年の職員会議で、誰からともなく「名前を入れてもいいんじゃないか」と声が上がった。反対する者などいなかった。
 総士の言ったとおり強制ではないため、家名を入れて流す者もまだ多い。しかし、戦いで近親者を失ったものの多くが、名前を刻むことを選んだ。
「そっか、そうだよな」
 居間に戻って来た一騎は小さな卓袱台の上にみっつ、ガラスコップを置いて納得したように頷いて、畳の上に並んだ木と和紙を見た。
「だからお前、よっつなんだな。お前の父さんと、母さんと、蔵前と、皆城乙姫の分だろう、それ」
 言われて初めて史彦は、数の多さに合点がいった。そういうことか、と目を向ければ、総士は珍しく視線を彷徨わせている。
「いや…、その、いっそ家名にしたほうがいいとは思ったんだ。だが、一度くらいは……、」
 ぼそぼそと言いにくそうに言葉を途切れさせた総士は、小さく、「特に母は、今になって、と…思わなくも、ないのですが」と、付け足した。言い方からして、一騎にではなく史彦に向けた言葉だ。言い訳でもするような物言いには、おそらく後ろめたさと躊躇いが混ざっている。彼自身、名を入れることに未だ迷いがあるのだろう。
 総士には母の記憶がどれほどあるのだろうか、と、史彦は思った。彼の母である皆城鞘は、ミールの暴走によって妊娠中に同化された。総士がまだ二歳のころだ。時を同じくして一騎も母親である紅音を亡くしている。一騎はおさないころ、母親の話を聞きたがる時期があった。成長してからは特に話題に出すことはなくなったが、毎朝の出がけに仏壇代わりの写真立てに挨拶をしていることを史彦は知っているし、何でもない日常のなか――たとえば料理を作っている時にふいに、「そういえばこれ母さんがよく作ってた気がする」とおぼろげな記憶を口に出すことはある。
 だが総士はどうだろう。史彦は一騎を連れてよく皆城の邸に行っていたが、あの家で鞘の思い出につながるようなものを見た記憶はあまりない。
 おそらく総士が母と妹の真実を知らされたのは五歳のときだ。ワルキューレの岩戸に初めて総士を連れて行くと聞いたとき、メモリージングがほどこされる年齢よりもおさない彼に、島の事実を伝えるのはあまりに早いのではないかと誰もが言った。だが、総士がほかの子どもたちとは違う生まれで、違う役割を担っていることも、また誰もが知っていた。総士は最初のうちこそ戸惑っているようだったが、徐々に知識を得て、父と共にアルヴィスに出入りするようになった。
 もとより理知的で、同年代の子どもたちより物わかりのよい子だ。必死で島のことを、自分のことを、受け入れようとする姿はときに痛々しくもあった。史彦からすれば、まだ甘えたがりで奔放で、ただ起きて食べて遊んで寝る、そんな一騎と同じ年齢の総士は「ただの子ども」にしか見えなかったのだ。
 そんな総士が、アルヴィス内で毎日のように出入りしている場所がワルキューレの岩戸だと、CDC内の大人たちのほとんどが知っていた。いつだったか、総士の位置情報が岩戸から動かず、手を離せなかった公蔵の代わりに史彦が様子を見に行ったことがある。公蔵は「きっとまた眠ってしまったんだろう」と何とも言えない顔で目を細めていた。その言葉のとおり、ひとの体内にでも入ったきもちになる、あの薄紅の空間で、総士は乙姫の浮かぶ人工子宮の下で丸まって眠っていた。史彦にとって、否、おそらくほとんどの島の人間にとって、コアの眠る場所は安らげるような場所ではない。神と等しく思うものもいれば、得体の知れないおそれを感じるものもいる。しかし史彦が抱え上げた子どもは、なんともおさない、しあわせそうな顔で眠っていたのだ。
 ああ、この子にとって、ここは妹のいる場所に過ぎないのだ。
 あるいはまた、その妹の存在の向こうに、彼は亡くした母をも感じているのかもしれないと思った。
 公蔵には公蔵なりの考えと悩みがあり、決して総士に対して厳しいだけではなかったということは知っている。総士もまたそれを理解し、父としての公蔵を尊敬していたからこそ、例えCDC内であってもずっと「父さん」と呼び続けたのだろう。
 人としての姿かたちを保ち、四人がともに暮らすことはついになかった。それでも、総士のなかに「家族」はある。母のことを覚えていなくても、妹のことを島のコアだと受け入れながらも、父の死を目にしても戦闘指揮官として涙すら見せずに戦い続けた時でさえ、総士のなかに家族というものに対する希求はあったのだろう。それはきっと、今も。
 総士が見せた後ろめたさと躊躇いの根源は、島のなかで自分、あるいは皆城という名が持つ意味を考えてしまうことにある。自分がほかの島民たちと同じように家族の死を悼んでもよいのだろうか、と。そんなことを思う必要はないのに。例え父や母や妹が、島にとってそれぞれに特殊な役割を担っていたとしても、総士自身が、今やふつうの人間の身体ではなくなっていたとしても、失ったものを思い出し、弔うきもちは誰に遠慮するようなものでもない。誰に踏み込まれてよいものでもない。
 未だ躊躇うような表情を浮かべる総士に、史彦はかつてそばにあった面影を重ねながら目を細める。
「…鞘さんは、紅音と仲が良かったんだ」
「え?」
 史彦の言葉に総士が弾かれたように顔を上げ、卓袱台に肘をついてなりゆきを見ていた一騎も、ぱちりと興味深そうに目を瞬かせた。史彦の口から総士の母の名が出たことに、ふたりとも驚いているのだろう。遠い思い出は瞼のむこうがわにずっとあって、けれど口に出すのはずいぶんと久しぶりだった。
「皆城は鞘さんにはひたすらに弱くてな、紅音とふたりして詰め寄られると、俺も皆城も勝てなかった。皆城と鞘さんは研究職で俺と紅音は戦闘機乗りだったから、専門分野はまったく違ったが、溝口も混じって五人でよく集まっていたものだ。一騎が産まれた時には『麻木には似ていない、似なくてよかったんじゃないか』などと皆城が言ってな、俺も総士くんが産まれた時に『鞘さん似で良かったな』と言い返してやった」
 そうだ、あの頃はまだ公蔵が、結婚して姓の変わった史彦のことを癖で「麻木」と呼んでいた。つまらないことを言いあう公蔵と史彦に、鞘と紅音が「くだらない」と言いながら子どもたちをあやしていた眩い景色を、未だ鮮明に覚えている。
 母親たちのことをあまり覚えていない息子たちにどう伝えればいいのか、口下手な史彦はよく分からない。一騎が紅音の話をねだるのをやめ、島の真実に触れてはならないという制約が史彦に思い出を語らせることを阻んで久しい。それでも、伝えたいと思った。うまくは言えなくても、島のために戦って傷ついてなお、島で生きることを選んだ息子たちに、確かに存在していた家族の痕跡とぬくもりを。
「しょっちゅう鞘さんと紅音がお前たちを連れて海だ山だと遊びに出るのに、皆城はなかなか地下から出て来られなくて、俺はたびたび恨みごとを言われた。あいつの皮肉は分かりにくくて、俺が分からずに流すと、またそれに不機嫌になってな」
「なんか、総士みたいだな」
「なんだと」
 くすりと一騎が笑ったことに総士が不満そうに眉間に皺を寄せる。そういうところがそっくりだ、とは言わないでおいた。一騎がそうであるように、つい思ったことを口に出していた若い頃の史彦は、よくそれで公蔵を怒らせていた。確かにふたりとも母親似の部分は多いが、中身を見れば父親の性格もしっかり受け継いでいる。
「鞘さんが二人目を妊娠したと分かったときは、見るからに皆城もそわそわしていたし、きみも、鞘さんの周りをうろうろしては、まだ出てこないのかと訊いていた。それを見た一騎が、俺も妹がほしいと言い出したこともあった」
 鞘の腹におそるおそる手を当てる公蔵と、横に座って耳を当てていた幼い総士の姿を史彦は覚えている。今思えばあれが、家族四人でそろっていた最後の姿だったのかもしれない。
「…そういうふうに、穏やかな時間は確かにあった。今まであまり話してやれなかったが…、亡くなったものを悼み、安寧を祈る日にくらいは、振り返ってもいいのだろう。それを躊躇う必要はない。きっと、鞘さんたちの灯篭を一緒に流せば、紅音もよろこぶ」
 お盆に失ったもののたましいが帰って来ると信じたかつての平和な頃の日本人が、家族や親せきで家に集まって墓参りをし、話に花を咲かせたのは、故人の思い出であっただろう。そして亡くしたものが残してくれた今という時間への感謝であっただろうとも、思うから。
 総士は史彦の言葉に、少しだけ口元を綻ばせた。不安と躊躇いでかたくなっていた肩が、ゆるりと降ろされる。
「ありがとうございます、司令」
 出てきた言葉こそかしこまっていたが、その表情はアルヴィスの中で見せるものとは違っていた。それはいつか腕の中に抱き上げたちいさく軽い幼子と、よく似た表情だった。


 それから三人で、あわせて五つの灯篭を作った。ときどき一騎が史彦に昔の話の続きをねだり、質問して、史彦は淡々と、けれど懐かしい気持ちに頬を緩めながら答えた。直接言葉にはしないものの総士も史彦の話には興味津々のようすで、作業する手がときどき疎かになっていた。
 父と母と妹、そして義姉の名前はすべて総士が書いた。ゆっくりていねいな筆運びは、ひとつひとつの線を入れるたびに、そのたましいの欠片を撫でているようにも見えた。慈しむように、悼むように。
 紅音の名前は一騎が書いた。父さんが書けば、と言われたが、「去年は父さんが書いたんだから、今年はお前が書け」と言って筆を返した。一騎の書く文字は無骨で角張っている。それが自分の筆跡に少しだけ似ていることが史彦にはなんとなくくすぐったい。遺伝子とは関係のないところでも、親と子には受け継がれてゆくものがある。
 灯篭がすべて出来上がる頃には、真壁家の居間には茜色の日が差し込んでいた。
「総士、夕飯食べて行けよ」
 当たり前のように言う一騎に、いつも総士は何度繰り返してもぎこちなさの抜けない顔でちらりと史彦を見やるのだが、今日は違った。
「すみません、ご相伴にあずかります」
 ごく自然な表情で微笑みながら、総士は「手伝う」と言いながら台所へ向かう一騎について行った。「今日は冷しゃぶにしよう」と一騎が楽しげな声で冷蔵庫を開ける音がする。お前はお湯沸かしてくれ、鍋はこれでいいか、と交互に子どもたちのやり取りする声と、水音やコンロの火の音がする。
 史彦は居間の畳のうえに並んだ灯篭を見ながら、まるで当たり前の家族の風景がそこにあるような気がして、ああ確かにたましいは帰ってきているのかもしれないなどと、感傷的で、けれどどこか清々しくあたたかなきもちに目を細めた。


        *


 八月十五日の夜も更けたころ、雁木に打ち寄せる波はやさしい音を立てていた。
 浴衣を着て友だちと屋台を回っていた子どもたちも、それぞれに想いを乗せた灯篭を手にして集まり出す。史彦の横には一騎と総士がいた。
「去年は確か、灯篭を流したところで来主の乗った船が来たんだったな」
「…すまない」
「何で謝るんだよ」
 謝る必要ないだろ、と、一騎が少しだけ怒ったような顔をした。
「だって、あいつが来てくれたから今年はお前がここにいて、俺はお前をちゃんとこの目で見られるんだから」
 それ以上の喜びはないのだと言いたげな一騎の声音に、史彦は思わず苦笑した。総士は「そ、そうか」と言いながら顔を少し伏せる。長い前髪が顔を覆ってしまったのでその表情は見えないが、髪のあいだからのぞいている耳が赤いことには、思い至っていないのだろう。完璧なようでいて、息子の言動に振り回されている総士を見るのはどことなくほほえましい。
「ほら、一騎、総士くんも、灯篭を流しなさい」
 史彦が声をかけると、まずは一騎が灯篭を手にした。父さんも、と言われて、「真壁紅音」と一騎の筆跡で書かれた灯篭に片手を添える。ゆるやかな波のうえで、ちゃぷ、と音を立てたそれを、父と子は同じタイミングで海原へと送り出した。
 今まで、指先からそれが離れていくたびに、史彦はくりかえし紅音との別離を重ね、苦しいような悲しいような思いになっていたものだ。しかし名が入れられてから初めて一騎とともに離した手は、その指先にかすかなぬくもりを灯している。あんなふうに、昔の話をしたからだろうか。たましいの温度か、あるいは、つながっていく未来を感じるよろこびなのだろうか。分からなくてもいいのだと思った。憎しみやかなしみは簡単には消えず、喪失のつらさはずっとそこにある。けれど、そのうえに積み重ねられていく喜びや愛しさも確かにあるのだ。未来を目指す限りずっと。
「真壁司令、お願いが、あるのですが」
 紅音の灯篭が少しずつ遠ざかっていくのを見ながら、総士が公蔵と鞘の灯篭を持ち上げた。
「父と母の灯篭を、一緒に流してもらえますか」
 そのほうが、喜ぶと、思うので。
 それはせいいっぱいの言葉だったのだろう。史彦は「ああ」と微笑んで頷いた。
 一騎とそうしたように、史彦は公蔵と鞘の灯篭に順番に手を添え、総士とともに送り出す。ふたつは寄り添いながら、先に海原へ漕ぎ出していった紅音の灯篭へ向かっていく。
 自分もいつか、あのなかに加わる日が来るのだろうと史彦は思った。できることならそれは、子どもたちよりも先であってほしい、と。叶うのならば、一騎と総士の手でともに流してほしいと。そう願うことが、司令としては正しくないのだとしても、親としての史彦の本音であった。
 乙姫と果林の灯篭は、一騎と総士がふたりで流した。一騎はそれぞれ手を添えながら、ありがとう、と海の向こうへささやく。
「…俺、ふたりにはすごく感謝しているんだ」
「…蔵前も、乙姫も、お前が覚えていてくれるなら、嬉しいと思う」
 ありがとう、一騎。
 ありがとうございます、司令。
 そう言った総士の声が少し震えていたことに、父も子も、気づかないふりをする。
 少し向こうでは咲良と剣司がそれぞれ父と母の名を入れたものを、保が、妻と息子の名を入れたものを、容子とカノン、そして真矢が翔子のものを、弓子と幼い美羽が道生のものを――多くのものが失ったもののあかりを海へ浮かべる。ひとつひとつが過去に失われたひかりであり、ひとつひとつが、未来をつくるともしびだ。
 きれいだな、と、一騎が言った。
 頷く総士と史彦を肯定するように、やわらかな風が吹く。

 いつかの日本人が、自分に連なるものたちを思い出し悼んだように、今ある生を貴んだように、この島でも繰り返していくのだろう。
 自分を生かしてくれたものたちのたましいに感謝し、そして、愛しい日々を思い出すことを。
 それが明日を生きる糧になる。
 そう、あってほしい、と、史彦はかなたへ向かっていくあかりを見つめていた。