遺す想いの在り処
「海域が違うと、釣れる魚も違うんだよな」
ワン、と、同意するように甲洋の隣でショコラが鳴いた。その鳴き声とほぼ同時、重なるように総士も「ああそうだな」と答えたが、ショコラの声に紛れてしまったようだった。ざぱん、ざざん、と、テトラに当って砕ける波の音は、総士たちのよく知るものよりも少しだけ荒い。偽装鏡面内の波の高さは、停泊地点に影響されないよう、いくらか制御されているのが常だが、今はシステムの負荷を少しでも軽減するために、設定が解除されているのだろう。最後におだやかな瀬戸内海の波を堪能できないのは残念だが、仕方がない。
――さいご。
ぽつり、と、空から落ちて来る最初の雨粒のようにしずかに浮かび上がってきたそれに、総士はすこしだけ頬をゆるめる。諦念や悲哀でもなく、焦燥でもない。ただ自然と、あたりまえのように、「さいご」という感覚が総士のなかにある。マークニヒトに言葉を遺したときから存在感を増しているにもかかわらず、妙に凪いだこころは、二度目という、経験ゆえなのか。
「…一騎、怒りそうだ」
「…読んだのか?」
「読んだわけじゃない。総士に隠す気がないから、流れてきただけだよ」
ひゅ、と、甲洋は慣れた動作で竿を振り、新しい餌をつけた針を海へ投げ入れる。
甲洋と総士のあいだに置いてあるクーラーボックスには、すでに何匹かの魚が入っていたが、そのすべてが甲洋の釣果だった。総士はといえば、釣り糸をたらしたきり、ぴくりとも反応しないそれを、かれこれ一時間は眺めている。
いつもそうだった。年に何度か一騎に誘われ、ふたりでこの防波堤に来ては釣りを試みたが、互いに碌な釣果は得られなかった。そのたび、「何で甲洋はあんなに釣れたんだろう」と話しながら、商店街の魚屋に寄っていたものだ。
不思議だと、思う。その甲洋とふたりで、ともに人間のからだではなくなった末に、昔のように釣りをしている。――いや、昔だって、ふたりで並んで釣りをしたことはなかった。ずいぶん幼く、釣り竿も持てなかったころ、浅瀬で蟹やヤドカリを追いかけていたのが最後の記憶だ。
あれから長い時間が経った。まさかふたりともに成人式を、この島で迎えることができるなんて、数年前までは思ってもいなかったのに。
見慣れたアルヴィスの成人用の制服。それをまとったおさななじみたちの顔を思い出し、次いで、「似合うなぁ」とうれしそうな顔をしながら総士の制服姿をながめていた一騎を思い浮かべる。
――怒る、だろうか。
最期というものを確信し、それを否定しない、総士のことを。
いいや、と、総士はちいさく笑う。
「一騎は、怒りはしないさ。あいつは…、そんなふうには、僕を惜しまない」
きゅうん、と、何かを察したかのようにショコラが鼻を鳴らすのと同時に、甲洋がじっと総士を見据える。「違うぞ」と総士は苦笑した。
「一騎が僕を失うことに、何も感じないという話ではない。ただ、僕に訪れる最期を、あいつは、単に否定することはしない、という話だ」
「…読んだのか?」
「読んでいない。お前の目を見て察しただけだ」
フェストゥムの読心能力というものを身を以って知ったのは、再生された肉体を得て、島に帰って来てからだった。しかし、強く意識をしなければ発現するものではなく、正直なところ、甲洋と操に再会し、彼らのやり取りを見るまで、忘れてさえいた。まして、操は「言葉で話すほうが楽しいよ」と言ってみずからすすんで心を読んでくることはないし、甲洋も同様だった。ただ、もともとが人間であった、というからだの組成が似通っているせいなのか、不意に心の壁がゆるんだ瞬間、互いの思考が伝わりやすい状態にはなっているらしい。
しかし、甲洋が総士の言葉に対してわずかに怒りの感情を向けたことを感じ取ったのは、そのせいではない。甲洋はもともと、感情が顔に出やすかった。今は人としての感覚を取り戻している最中であり、まったくおなじように素直に表情が変化するわけではないが、それでも、長い時間を共に過ごしていたおさななじみの考えていることくらいは、わかる。――わかるように、なったのだ。
だが甲洋は総士の言葉を否定するように、ふと視線を下へ落とし、かすかな声でつぶやく。
「ちがうよ。ちがうんだ、総士。失うっていうのは、とても痛いことだ」
――それは失われるもの、自身にとっても。
それは声には乗せられず、直接、こころのなかへ届いた。「え?」と総士がちいさく声に出したのを遮るように、甲洋は揺れた竿をぐっと強く引く。大きく水が跳ねて、生存圏から切り離された魚が、コンクリートの上に落ちる。活きの良い魚だ。なんという名前なのかは知らないが、甲洋がクーラーボックスに入れているから、食べられる魚なのだろう。
今夜は成人したみんなで、お祝いがてら食事をし、年齢条件を満たしているものは酒を飲もうということになっている。一騎がさばいて刺身なり煮物なり、焼き物になりなるはずだ。そういえば――以前、楽園で魚をさばく手伝いをしたことがあった。それぞれの人の手を経て得られる、自然からのめぐみ。いのち。一騎が調理するそれを食すことで、総士はいつも、いのちの循環のなかに自分がいることを感じていた。擦り減ってもうわずかしか残っていないからだでも、こうしてまだ、別のいのちによって生かされている。
今度はただ――その順番が自分にまわってきたというだけなのだ。総士はそう理解している。そしてそれを、一騎が否定しないであろうことも。
「…来た」
ぴくりともしない竿を持ったまま思考の海に沈んでいた総士は、背後からの気配に気づかなかった。甲洋の声ではっと顔を上げて振り返れば、こちらに向かってくる一騎が見える。その気配は前よりもずっと、総士に近く、感じ取りやすくなっている。――同じ道、けれど、決定的に違う方法を選んだ、その代償に。
「これだけあれば、じゅうぶんだな」
釣れた魚の下ごしらえをすると言う一騎と連れ立って喫茶楽園に来た総士と甲洋は、いくらか魚をさばく手伝いをしたのち、カウンター席でコーヒーを飲んでいた。厨房に立つ一騎を見た甲洋は「すっかり、お前の店みたいだ」と目を細めて笑う。しかし、目をまたたかせた一騎は、「ここは、甲洋の家だよ」と笑い返した。
甲洋の両親が島を出されてからは溝口が店を切り盛りはしていたものの、春日井家が生活していた二階部分はほとんどそのままだ。店内も、すこし内装が変わりはしたものの、甲洋の趣味で置いてあった釣り具などは手つかずで置いてある。総士が肉体を失っていたあいだ、アルヴィスの部屋や皆城の邸をみんながそのまま、きれいに保ってくれていたように、ここもずっと甲洋の帰りを待っていたのだ。
「――うん、そうだね。ここはとても、おちつく」
甲洋がコーヒーカップを手でつつみこみながら目を閉じて、「いろんな記憶が残ってる。この場所が生きていたあかしに」と、ゆっくりなにかを味わうように息を吸い込む。
四年と七カ月と十一日。一騎と総士が会話をしなくなってからの日々を正確に記憶していたように、甲洋はなにもかもを覚えている。喜ばしいことも、厭わしいことも、すべてを。そんな甲洋の帰る場所に自分たちが残してきた記憶が、すこしでも、彼にとって好ましいものであればいいと、総士は思いながらコーヒーを口にはこぶ。
記憶――それは過去のものごとだ。記憶になるということは、過去になるということ。いつかきっと自分も、そのひとつになるのだろう。肉体を失って、存在が消滅して、ここにいたというその記憶だけが、ここに生きていたひとたちのなかに残る。まったく、なにもかもが、なくなるというわけではないのだ。
けれど、情報よりも、記憶はあいまいだ。情報とちがい、記憶はひとのこころのなかに残るぶん、うつろいやすい。甲洋のような能力がなければ、長いときのあいだに、薄れてしまう。まして、ひとのいのちは短い。ひとが亡くなれば、記憶はいっしょに消えてしまう。そんなはかないものに、それでも願いをかけてしまうのは、ただそこにいたという事実より、そこにいて、ともに得た感情を、この世界に残しておきたいと、そうみな、思うからなのか――。
「総士?」
ぼんやりと、手元のコーヒーカップに目線を落としたままでいた総士に、一騎が「どうかしたのか」と首をかしげている。「ああ、いや、なんでもない」とあいまいに笑って、カップを置いた。隣で甲洋が、何かを言いたげな顔をしている。一騎はそれに気づくことなく、何やら厨房のなかにしゃがみこみ、棚のなかをあさりはじめた。がたん、ごとん、と、重たげな音がする。
「…何をしているんだ?」と総士と、つられた甲洋がともにのぞきこめば、「うーん」と言いながら一騎が一升瓶を手に持って起き上がった。緑がかった瓶の中にはたっぷりの透明な液体が揺れている。
「今夜、飲めるやつは酒を飲むだろ。ここにあるのって基本的に、溝口さんの趣味なんだけど、どれが美味いとか、いまいちわからなくて」
「それは…、夜になって集まったときに、開けて試すしかないんじゃないのか?」
「うん、そうなんだけど、ちょっとその前に…」
「抜け駆けするのか?」
「そうじゃなくて!」
お前そんなに酒を飲みたかったのかと思いながら総士が問えば、一騎が慌てて首を振って否定する。
「その…、先に持って行きたいんだ。翔子と、衛のところに」
――ああ、そういうことか。
成人式を迎えたパイロットたちのなかに、ほんとうは、いるはずだったふたり。
ふたりとも、ここにいれば、誕生日はすでに迎えている。二十歳になっているのだ。
あいまいな記憶というもののなか、しかし確かに存在するふたりを思い浮かべれば、身の丈がおなじくらい伸びて、成人用の制服を身にまとった姿がまぼろしのように過ぎる。
総士はひとつ息を吐き、一騎に手を差し出した。
「…銘柄を見せてみろ。アーカイブで検索すれば、美味さはともかく、どんな酒かくらいはわかるだろう」
「飲み比べてみよう、じゃ、ないんだ?」
くすりと笑う甲洋に、「僕はまだ未成年だ」と返せば「真面目だなぁ」と苦笑される。すでに日本が存在しなくても一応、竜宮島は日本の法律に則って生活が成り立っている。これも文化保存の一環だ。ルールに従うのは当たり前だろうと顔を顰めれば、「じゃあ俺がやろうか」と甲洋が言い、「抜け駆け禁止」と一騎に釘を刺された。
*
竜宮島のなかでも特に高いところに、墓地はある。
島の街並みも、山々の緑も、海の青さも眼下いっぱいに広がり、果てのない空がそれらすべてを包み込んでいる。傾きはじめた日差しが、じわじわと橙色に景色を染めていくのが、あまりにもうつくしい。胸をしめつけるような郷愁を感じながら、総士はおおきく呼吸をした。澄んだ空気が、心地よくからだのなかに入ってくる。
ここまで上がってくるのは、随分と久しぶりだ。島を出て五カ月近く経つうえに、帰って来てからも落ち着く暇などなかったのだから、当然と言えば当然だった。
墓地のなかは、こんなときであっても、きれいに掃除がされていた。磨かれた石の波を抜け、まずたどり着いた小楯家の墓には、すでにひとつ、ちいさな酒が置いてあった。花も、真新しい。
「保さん、かな」
「そうだろう」
妻とひとり息子の眠る墓に、彼が足しげく通っていることは、みなが知っている。成人式の場にはいなかった彼が、息子のために酒を持ってくることは、予想できたはずだった。「邪魔しないように置こう」と一騎が言って、持参したガラスのコップにとくとくと酒をそそぐ。味のよしあしはまだ誰にもわからないのだが、日本酒がはじめてでも飲みやすい、と謳ってあったものを選んだ。
そっと脇に添えるように置けば、つん、と、アルコールの匂いがただよう。
「衛って、やっぱ、酒強いのかな。保さん、前みたいな無茶な飲み方はしないけど、溝口さんと飲んでるときのスピードすごいんだ」
「そうだな、衛は…酔っても正気を保っていそうだ」
「酔っぱらった剣司を介抱するなら、衛だろうね」
甲洋の言葉に、一騎と総士はぼんやりと、前後不覚になるまで酔っぱらった剣司と、それを抱えて困った顔で笑う衛を思い浮かべる。想像するのは容易く、「ありえるよな」と三人でかすかに笑いあった。もうそんな日がこないことは、わかっている。わかっているから、何度も振り返り、思い浮かべるのだ。
しずかにそっと手を合わせて小楯家の墓を後にした三人は、次いで、羽佐間家の墓に移動した。やはりここにも真新しい花がこぼれんばかりに供えてある。それはきっと、翔子のためだけのものではない。真っ先に一騎が墓の前に膝をついて、まず静かに目を伏せた。
ずっと、一騎がファフナーに乗ることを憂いていたのに、長く平和に生きてほしいと願っていたのに、それでも機体を整備して、シュリーナガルへ送り出してくれた力強い瞳。必ず帰って来い、と、そう言ったあの声がまだあざやかによみがえるのに、彼女も――カノンも、もう、いない。
「…ただいま、カノン」
そっと目を開けた一騎がちいさくささやいた。
カノンがいないのだと知ったあと、一騎は「夢を見たんだ」と総士にそっとこぼした。旅路の途中で、カノンが去っていく夢を見たのだと。それはカノンの最期の、一騎への、メッセージだったのかもしれない。
彼女が選びとってくれた希望が、こうして総士たちの立っている「今」を創っている。選べなかった未来を「もしも」と想像する、その甘美さを知っていても、あらがえなくても、それでも、カノンの選んだ未来は、命を懸けた未来は、「今」だ。もしももっと早くに島に帰っていれば、いや、島を出なければ――そう考えることは、カノンの選んだものを否定してしまうことになる。だからどれだけ悔しくても、つらくても、それでも、総士たちは今を生きるしかない。翔子のときも、そうだったように。
翔子もカノンも失って、それでも容子は今なお、ブルクで機体の最終調整をおこなってくれている。きっと、合間を縫って花を届けにきたのだろう。
一騎は衛のときと同じように酒をそそいで、そっと置いた。
三人で目を伏せれば、さぁ、と、やわらかく風が吹く。誰も口を開かない静かな時が過ぎたのち、「あれ以来だ」と言ったのは、甲洋だった。
「三人でここにいるのはさ…、あの、雨の日以来だ」
――雨。
死を嘆くように、憤るように、叩き付けるように降っていた雨。
薄暗く濁った空。
汚されてしまった墓。
甲洋の、慟哭。
一瞬でよみがえった光景に、総士は無意識にくちびるを噛んでいた。
おさなかった自分。他に方法を知らなかったころ。どんな結果を招くかなんてわかっていて――それでも躊躇はできなった。守りたいものがあった。今だって、まちがっていたなんて口が裂けても言う気はない。これは、ずっと総士が抱えていくべきものだ。
総士のとなりで一騎もかすかに肩を揺らした。しかし、しずかな穏やかな声で、「うん」と、うなずく。その声に、総士は反射的に一騎の顔に視線を向けていた。妙に大人びたような表情が、そこにある。
「守りたかったよ、俺も」
――お前なら、助けられたはずだ!お前は、ファフナーに乗っていたじゃないか!
――自分たちだけ生き残って、それでいいのか!
あの日、甲洋が叫んだ、その言葉への一騎の返答だった。
甲洋はしずかに一騎を見つめて、うん、と、かすかに頷いて目を伏せる。
「守りたかったんだ。翔子だけじゃない。衛もカノンも、広登も暉も――旅のなかでたくさん死んでいったひとたちのことも、守りたかった。誰かがいなくなるたびに、あのとき、どうやって伸ばしても届かなかった手を思い出した。ファフナーに乗っていても、戦うちからがあっても、どうしても守れないものがあるって…わかってるんだ。でも俺はずっと…それを、諦められない。俺だけじゃない。翔子も衛もみんな、みんなそうだったんだ」
彼らを守りたいと願うように、彼らもまた、守りたいがためにもがいて、駆けて、散っていった。その願いの先で一騎たちは生きている。
「…でも、翔子たちが死にたかったはずなんて、ないんだ。守りたいのと同じくらい、生きていたかったんだ」
一騎の言葉に、総士のなかで、不意によみがえってくる声があった。
――そんなわけないじゃない!生きたかったに決まってるじゃない!
普段は甘やかでやわらかな声が、悲痛さをともなって、叩き付けられた。電話越しにもつよく感じた、憤りと、もどかしさ。どうしてわからないのかと、わかってくれないのかと、泣き出しそうだった真矢の声だ。
「僕も遠見に…そう、気づかされたことが、あった」
「遠見に?」と一騎が首を傾げたのち、「ああ…俺もだ。俺も、怒られたこと、あるよ」と苦笑する。互いの会話の内容を詳しくは知らないが、おそらく、同じときだろう。真矢をいかにしてパイロットから外すか――などと、本人の意志も無視して、ふたりで空回ったおさない日のことを、思い出す。
「守りたいと手を伸ばすことと、生きていたいと、そう願うことは、決して、相反しないのだと、僕はあのとき知ったんだ」
「…でも、総士は無意識にそれがわかっていたから、最期まで、翔子を助けようと必死になってくれたんだろう」
はっとして甲洋に視線を向ければ、錫色の瞳がやわらかく細められる。
「知ってるんだ、今は。最後までお前が、フェンリルを止めようとしていたこと」
――誰も、それは、知らなかったはずだった。
いや、知るも知らないも、おなじだ。結局総士はフェンリルを止めることはできなかった。敵から引き剥がして脱出させることも、できなかった。――助けられなかった。
「……僕は、結局何もできなかった」
「みんなだよ、総士。誰だって、できなかったんだ。守りたいと強く願って戦う誰かを、生き抜こうとする誰かのことを本当に止められるひとなんてきっと、いないんだ。お前のことを、――止められないみたいに」
甲洋のつよい瞳が、まっすぐ総士を射抜いていた。思わず総士はたじろいでしまう。何もかもを見透かすあの――真矢の瞳に見つめられたときのような心地がして、咄嗟に声が出ない。何を言っているんだ。どういうことだ。そう口を開く前に、甲洋が言葉を重ねる。
「お前も、生きたいと思っているだろ、…総士」
――なにを。
なにをいっているんだ。
鼓膜でも脳でもない。こころが、甲洋の言葉を跳ねのけた。理解したくないと、呑まれたくないと、認識することを拒む。それでも突きさすようにふってきた言葉は、じくりと、胸におちて沁み込んでいく。そうすると今度は、「だからなんだ」という思いがわきあがる。生きたい、と、思っている。その何が、おそろしいというのか。生きているのだから、生きたいとおもうことは当然だ。当然で――それでも、生きたい、というそのひびきが、それを呑み込むことが、どうしてこんなにも――。
「俺は、生きたかったよ」
一騎が言った。
無意識に握りしめた手に触れたのは、すこしつめたい指先だった。
水仕事で荒れていたはずの指が、一度砕け、再生されたせいで、なめらかになって感触がちがう。それでも一騎のものだとわかるのはもう、総士のすべてが一騎のことを覚えきっているせいだ。
「楽園で…七夕の短冊書いたときにさ、本当は最初、生きたい、って、書いたんだ。書いて、握りつぶした。こわかったんだ」
一騎の指は総士がかたく握っている指をひとつひとつ外していく。触れられると、勝手に力が抜けてされるがままになってしまう。
「大丈夫なんだって思っていたかった。いなくなることを受け入れられているって。だから、生きたいなんて言いたくなかった。生きたいと望むことは、生きられない自分を突きつけられているのと同じことだったから。何か学んで、やり始めて、それがやり残したことになるのが嫌だったのも同じだ。未練なんてほしくなかった。お前は生きられないんだって、もうそれ以上なにかをすることはできないんだって、…思い知らされたくなかったんだ」
「かず、き」
「なぁ、総士。失うことが痛くてくるしいのは遺されるほうだけじゃない。いなくなるやつのほうが…痛いんだ」
――ちがうよ。ちがうんだ、総士。失うっていうのは、とても痛いことだ。
――それは失われるもの、自身にとっても。
ああ、そうだ。甲洋は海辺で、そう言っていた。そう言って総士に憤った。あれは、一騎が総士を失うことに怒らない、と、そう言ったことに対してではなかったのだ。無意識に自分がいなくなることに対して、他者のことばかりを考え、自分自身を見つめようとしないでいる総士に、憤っていたのだ。
動揺してまとまらない思考はきっと、漏れ出してしまった。取り繕おうとしたところで、もう甲洋と一騎には伝わっている。
総士はほどかれた指を一騎のそれにからめた。すこしつめたいけれど、それでもじわりと、温もりが伝播する。くるしい。生きているから感じられるこの温もりがうれしくてくるしい。
「…いつ、わかったんだ」
感情が揺れ動き、言葉がまとまらず、その問いに主語はなかった。しかし一騎は自分が問われている内容を察して、「お前が選んだときに」とあいまいに言う。ゆっくりと顔を上げて一騎を見やれば、おだやかな表情のなかに、それでもたしかに、やり場のない悲しみと怒りを見つける。同じものになった。同じ道を選んだ。総士が一騎を一目見てその祝福を察したように、一騎とて、総士の限りある未来を感じ取ったのだろう。「そんなふうに惜しまない」と総士が口にしたとおり、一騎はかつてのように、嫌だと泣いて叫んで縋ることはない。そうしても、総士の行く先を変えられないことがわかっているからだ。それこそが、総士の選んだものだと、わかっているからだ。けれど、それはあくまでも理性的な面での理解であって、感情とは別だ。
――ほんとうは泣きわめきたい。
いやだと、ここにいてくれと、いっしょにいたいと、言ってしまいたい。
でも、総士が選んだからこそ、俺はここにいられる。俺のいのちの使い道が拓けている。
それを否定することなんかできない。
それでも、それでも――。
留め方を知らず、流れこんでくる一騎の想いに総士はくちびるを噛んだ。そうしないと、喉の奥から感情があふれてしまいそうだった。
「…なぁ、総士」
一騎は細く長く息を吐いて、握りこんだ総士の指先を慰撫するようになぞる。
「お前はずっと、みんなの痛みや苦しみを、最期のこえを、忘れないで、抱えて生きてきただろ。どんなにつらくても、手放さないで生きてきたんだろ。それなら…、その痛みも、お前自身の痛みもぜんぶ、俺にくれないか」
「…なにを…、」
思ってもいなかった言葉に、総士は目を瞠る。見慣れているはずの榛の瞳が、強く総士を射抜いていた。確かにそこにいるのは一騎なのに、知っているはずの色を、かたちをしているのに、見たことのない顔をしている。いや――見たことがないわけではないのだ。やわらかそうに見えて根は頑固で、こうと決めたらけっして譲らない。どんなに苦しい道であっても、自分を犠牲にする道であっても、がむしゃらに突き進んでしまう。叫んで引き留めても振り返ってくれないのは、総士ではなく、いつだって一騎のほうだった。戦って守ろうとする意志のつよいものを止めることはだれにもできない。総士が、失われる――その選択をもってしても、一騎を止めることが、できない。
「お前のぜんぶ、俺が、持って行く」
――痛みも、苦しみも、未練も。お前が生きてきたあかしをぜんぶ、俺がつれていく。俺が抱えて生きていく。
「総士とも、総士のなかにいるみんなとも、いっしょに俺は生きたい」
総士がうしなわれたとしても、一騎は自分のなかに、総士のおもいを、意志を、べつの存在として、そこにいたあかしとして、留めようというのか。それは、同化ではないのか――ちがう。同化ではない。痛みを、苦しみを、意志を、それぞれの個のもっていたそれを、一騎はそのまま抱えたいというのだ。一騎という揺るぎない存在のなかに、内包されるもの。
まるで事象の地平線に永遠に増え続ける情報とおなじだ。けれど一騎のなかにあるかぎり、それは情報ではない。記憶だ。呼び起こせば感情をともなう、ときに愛しく、ときにさみしく、一騎をゆさぶるものになる。それでも抱えたいというのか。それでも――憶えていて、くれるのか。
「憶えてるっていうのは、くるしいことだよ、一騎」
それでも、いいのか?
なにもかもを忘れられないで生きてきた甲洋が、しずかに言った。一騎は迷うことなく頷く。
「それでも憶えていたいよ。それに――甲洋も、総士も、ずっとそうしてきただろ」
かすかに浮かべられた笑みには痛みがあった。
痛みとともに、決意がある。
それは揺るぎのないひかりだ。どんなにつらくとも手放さない、総士のよく知っている、なにもかもを諦めてはくれない一騎のひかりだ。それが総士には苦しくて、痛くて、――愛しかった。
総士は一度目を伏せて、一騎に向き直る。
「…生きてくれ、一騎」
懇願するような声が、無意識にこぼれた。諦めるな、悲観するな、そうとしか言えなかったころがあった。けれど今は、途方もない一騎のいのちの未来を知っている。生きてほしいという言葉は呪いのようだ。それでもこれがいつか、一騎を縛り付けるものではなく、祝福だと、ほんとうにそう言えるときまで、ともに生きてほしい。連れて行ってほしい。憶えていてほしい。
「ありがとう、総士」
言葉とともに触れた一騎の右手が、やさしく左目の傷痕をなぞった。
*
――あさの、においがした。
炊かれた米と、味噌と、なにかが焼かれる香ばしいにおい。
総士はぼんやりと瞼を上げる。カーテン越しにきらきらと陽のひかりがまばゆくふりそそいでいる。大きく呼吸をすれば、畳と太陽と、一騎のにおいがした。何度も何度も繰り返して来た、なにも変わらない、朝。
――だがこれが、さいごかもしれない。
ゆうべは、楽しかった。喫茶楽園に集まった成人したパイロットたちと、それを祝いに来てくれた後輩たち、そして、おとなたち。はじめてのアルコールに口をつけた一騎は、意図的に量を自分でセーブしていたので見るからに酔うことはなかったが、「飲めばいくらでもいけそうだなぁ」と溝口に肩を竦められていた。甲洋はグラスを持つ手がさまになりすぎていたし、真矢は「甘いお酒は好きかも」と、一騎がレシピを探して見よう見まねでつくったカクテルをおいしそうに飲んでいた。まだ誕生日を迎えていない剣司と咲良と総士は、もちろんアルコール摂取は固辞し、素面の状態で各々のレベルで酔う同級生を観察する、というはじめての状況を楽しんだ。
解散したのは、日付が変わるすこし前だったと記憶している。みんなで騒いだせいなのか、アルヴィスの部屋に戻るのがなんとなく嫌で立ち止まった総士の腕を一騎が引いたのは自然な流れだったろう。
史彦はアルヴィスに出ずっぱりで、家にはいなかった。それはつまり、こうして当たり前のようにみんなで日常を楽しんでいても、確実に戦いはすぐそこに迫っていることのあかしだった。
あと二日。みんなわかっている。わかっているから、平和な時間をたいせつにする。ずっと変わらない、島の営み。
だから、つないだ手が離しがたかったのも、月明かりのなかでかすかにひかった金の瞳に言いようのない衝動が湧き上がったのも、触れたくちびるに泣いてしまいそうになったのも、誤魔化すように布団も敷いていない畳の上に倒れ込んだのも全部、自然なことだった。
さいごだ。きっと、さいごになる。
繰り返し、繰り返し、熱にうかされながら思っては目からあふれるものは、物理的な痛みによる生理現象だと言い訳をした。自分にどれだけ言い訳をしたところで、やさしく総士の名を呼び続けた一騎にはきっと、知られている。
さいご。
しずかにこころのなかに浮かんでくるそれを、受け入れられていると、おもっていた。――いや、受け入れているのだ。こころのどこかで受け入れて、受け入れていても――苦しい。
木の板を踏む足音がして、襖が開けられる。朝のにおいを連れてきた一騎が枕元に膝をついて、総士をのぞきこんだ。ぱちぱちと目をまたたかせた一騎はひとつ苦笑して、一度、総士の視界から消えたかとおもうと、するりと隣に潜りこむ。
「かず、き…?」
「二度寝。朝飯の支度はしたけど、起きてからあたためなおせばいい」
胸元に抱き込まれると、いっそう、朝のにおいはつよくなる。鼻の奥がつんとして、だめだ、と、おもったときには、こぼれたものが一騎のシャツを濡らしている。
さいご、さいご、さいご――そう思うことこそがすべて未練だった。「生きたい」と思っているあかしだった。生きたくても生きられないあかしだった。のみこんで、知らぬふりをしていたかったのに、一騎のせいで決壊してしまったものは、昨日からずっと止まらない。それでいいのだと、全部ぜんぶ、自分に遺してほしいと一騎は言う。全部遺してゆきたいと、総士も願ってしまう。
「…怖いわけじゃない」
――何度繰り返しても、おそろしくてたまらない。
「僕は、…僕が、選んだんだ」
――もっと別の道があればよかった。
「島のために…これから続く未来の、希望のために生きると、僕が」
――それなのに、こんなにもくるしい。
――ここに、いたい。
「…うん」
聞こえる声も、聞こえない声も、すべてを呑み込むように一騎がうなずく。
やわらかな声。やさしい指先。規則正しく鳴る心音。すべてを包むぬくもり。憶えていたい。総士も一騎を、憶えていたい。
総士をかたちづくる、なにもかもがこの世界から消えてしまうそのときまで、一騎を憶えていたい。
遺していく想いが一騎のなかで、総士が総士としてこの世界にいたことを、いつまでも証明し続けるのだろう。一騎を憶えていたいと、さいごまで縋り続けたこのみにくさも、それでも自分で選んだ道に悔いはないというすがすがしさも、相反するそれらがすべてで皆城総士であったことを、ずっとずっと先の、いつかたどりつくふたりの願いの果てまで、抱え続けてくれるのだろう。
どうか、どうかすこしでも、遺してゆく想いが、痛みが、一騎にとって、その永く続く道の標になるようにと、いのる。
「一騎…、かずき」
「うん、…総士」
うれしくて、かなしい。
いとしくて、さみしい。
生きていたい、生きられない。
抗いたい、受け入れたい。
迷って、苦しんで、そして、最期まで僕はここにいた。
人として生きて、人として死に怯え、人として未来を託せるよろこびを胸に、僕がここにいたことを――どうか、憶えていて。