青空傘の皆城くん―A few years later―
※これは「青空傘の皆城くん」の数年後のお話です。
ただいま、と、玄関の扉を開けると、廊下も、その先の扉越しにぼんやり見えるリビングも、薄暗闇に包まれていた。見慣れた靴が一組、几帳面に揃えて置いてあることから、返事はないものの、同居人は帰宅しているらしい。
そうだろうなと予想はしていたので、一騎は急いで靴を脱いでスリッパに履き替える。短い廊下を進んでリビングに入ると、生温かい空気が頬を撫でた。クーラーは切られ、カーテンはしっかり閉じられている。今日は八月にしては気温の低い日だったが、それでも、何とも言えないじめっとした空気はこもってしまったようだ。
対面式になっているキッチンを覗くと、朝、一騎が洗っておいた食器が水きりかごに置かれたままになっていた。今日は一騎のほうが後に家を出た――つまり、一騎より先に出て、先に帰って来た同居人は、わき目もふらず自室に直行したということだろう。
リビングに面して並んだふたつの扉のうち、手前が彼の――総士の部屋だ。物音ひとつ聞こえないその扉をちいさくノックして、返事を待たずにそうっと開ける。
「総士。ただいま」
こちらはリビングと違い、適度にクーラーがかけられていた。部屋の住人が好んでいる橙色の間接照明だけがぼんやり灯り、真ん中に据えられたベッドに、薄手のタオルケットからはみ出した亜麻色の髪と白い脚が見える。カーテンは閉められていなかったが、部屋は暗い。時刻は午後六時過ぎだ。本来ならばまだ明るい時間帯だが、進路を大幅に変えて今夜にも上陸すると言われている台風の影響で、外は厚い雲に覆われていて、ごうごうと強い風が吹いている。窓には、ちょうど降り出した大粒の雨が音を立てて当たって弾けていた。もう少し遅く帰っていたらびしょ濡れだったな、と、思いながら、一騎はそっとベッドに近づいた。
ベッドの上、もぞもぞと緩慢な動きで上半身を起こし、顔を覗かせた総士は、ぼんやりとした目で一騎をとらえ、おかえり、と、言った。声に覇気はなく、顔は紙のように白い。
「大丈夫か?」
一騎が不安に駆られてその頬に手をやると、総士は少しほっとしたように力を抜いて、まるで暖を取るように手にすりよった。
「……あたたかいな」
「総士が冷たいんだよ。いつ、帰ってきたんだ?」
「……昼過ぎだ。今日中に提出すべき書類が早く片付いたし、天候も悪くなったから、午後はすべて休講になった」
「じゃあ昼飯から食べてないのか。すぐ夕飯……、の前に、何かあったかい飲み物持ってくるから待ってろよ」
白い頬をあたためるように両手で包みこみ、言い聞かせるようにこつんと額をあわせると、「ほんとうに、こういうときのお前は、過保護だな」と総士がちいさく笑った。
――総士は気圧の変化に弱い。それは持って生まれた体質というもので、生真面目で優秀な彼がどれだけ努力したって治せない、唯一のものだ。
一騎が総士に初めて出逢ったのは、中学生のときだ。
もともとは同じ島に住んでいたが、物心がついて顔を合わせる前に、総士は一家で島の外へ移住してしまっていた。親同士は昔から仲が良く、移住後も交流があったため、一騎が島外の中学へ進学する際、「何かあったら頼るのよ」と、総士たち一家の暮らす近くにアパートを借りることとなった。たまたま通う中学校も同じで、たまたまクラスも同じだったから、自然と一騎と総士は一緒にいることが多くなった。
何でもできて、みんなに頼られていて、完璧な総士。一騎にとって、総士の最初の印象はそれだった。慣れない土地に戸惑う一騎にも常に優しかったし、その優しさは、ほかの誰にも等しく与えられていた。そしてとても強がりで頑固者でもあった彼は、弱みというものを、みんなの前では決して出さなかった。
そんな総士がうっかり――そう、本当にうっかりだったのだろう――台風が接近していて、午後から休校になるという日。一騎とともに帰宅する途中、動けなくなってしまったのだ。風も雨も強くなる一方で、どうしようもなくなった一騎は、傘をたたみ、総士を背負って、総士の家まで猛ダッシュした。島でいちばん体力があり、運動神経が良いと言われ、中学校でも各運動部から助っ人に引っ張りだこだった一騎には造作もないことだった。
びしょぬれになった一騎は、その日一晩、総士の家で過ごさせてもらった。そして、総士が気圧の変化にはめっぽう弱いのだ、ということを知ったのだ。
倦怠感とか、頭痛とか、吐き気とか、めまいとか、そういう諸症状が現れやすく、事前に薬を飲んで備えはするものの、どうしようもないときもある。それでも総士はとても強がりなので、学校では平気なふりができてしまう。だから周りも、彼の不調には気づかない。総士自身が、気づかせようとしない。
「だから、きっと一騎くんには、気を許しているんでしょうね」
彼の母にそう言われて、一騎はどきりとした。――高揚した。総士の弱みを、自分だけが知っている。総士が自分に、頼ってもいいと、きっと、たぶん、すこしでも、思いはじめていてくれる。
当時、少なからず総士という存在に羨望と親しみと、あと、もっとそばに近づきたいという想いを持っていた一騎は、それがとても嬉しかったし、誇らしかった。誰にもわからないように、自分は総士の強がりを支えようと決めた。それはつまり、自分だけが、総士をめいっぱい甘やかしてやるのだ、ということと、同義だったのだ。
それがやがて、お互いに対する好意を育み、唯一無二の存在になるのに、そう時間はかからなかった。
高校までは同じ学校に通い、総士は大学へ、一騎は専門学校へ進学した。そのころから、ふたりで部屋を借りて暮らすようになった。先に社会人となった一騎は学生のころから働いていた喫茶店で勤め、総士はいま、大学院へ通っている。
気圧の変化に弱いのも、それを他人に見せようとしないのも相変わらずだ。今日は朝から「台風か……」と虚ろな目をしていたから、一騎も早く帰宅しようと決めていた。こんな日に客はあまり来ないし、明日は大荒れの予報だから、臨時休業である。総士の大学も休みだろう。
食べやすいものをつくり、冷たいからだをあたためて、とことんまで総士を甘やかすのが今日と明日の一騎の重要な仕事だ。手始めに、こういうときの総士が好む、はちみつ入りのホットミルクをつくろうと、一騎はキッチンに向かった。
*
「ほんとうに、過保護が過ぎる……」
「総士、日本語おかしいぞ」
やっぱり頭働いてないんだろうと言いながら、一騎は泡まみれになった総士の髪にざぁっとシャワーをかける。総士はもわもわとあたりを満たす湯気につつまれながら、髪を梳かれるきもちよさに目を伏せた。
総士を椅子に座らせて、背後から髪を洗う一騎の手つきは慣れている。それもそうだ。自分で何もしたくないくらい総士の体調が悪いとき――けれど風呂に入ってあたたまりたいという欲だけはあるとき、一緒に暮らすようになってからずっと、一騎はこうして総士を風呂に入れてくれる。最初はそこまでされる謂れはないと抵抗したこともあったのだが、一度ゆるしてしまったら、その心地よさに抗えなくなったのは総士のほうだ。
髪を洗い終わり、からだは自分でざっと洗って、先に湯船に浸かる。続いて一騎が自分の髪を洗う、その背中をぼんやり眺めながら、あの背中にすがってしまったのが、なにもかものはじまりだったと思い出す。
あの日――中学生だった総士が、初めて一騎の前で倒れてしまった日。
いつもより体調が悪い、という自覚はあった。けれど、昼で休校になることは予想していたから、それまでならば大丈夫だろうという過信があったのだ。帰る時間が近づくにつれてどんどんめまいと頭痛はひどくなって、一騎とふたりだけになったとたん、ふ、と、気が抜けてしまった。
一騎と出逢うまで、総士は特に、誰かひとりと行動を共にする、ということがなかった。
最初は、親同士の仲が良いから、中学生で知らない土地に一人で来て、心細いだろうから、という理由で一騎と共にいた。けれど次第に、一騎の隣にいると、気負わず、自然なままいられることに気づいた。それが心地よかった。だから、あの時も、もういいか、と、そう思ったのだ。苦しい、しんどい、それを、一騎の前で我慢しなくても、もういいだろうか、と。
朦朧とするなかで、自分を背負ってくれた一騎の体温が、あまりにもきもちよくて、安心できて、総士はすこし泣いたのを覚えている。
誰にも、一騎にだって言ってない。雨が誤魔化してくれたそれを、総士だけは覚えている。あれから、総士にとって、一騎は特別になった。
「そーし、入っていいか?」
「あ、」
ぼんやりしているうちに、一騎は髪もからだも洗い終えていたらしい。総士が湯船の端に身を寄せると、一騎が隣に身を沈める。
「辛かったら寄っかかっていいぞ」
ほら、と肩を差し出す一騎に、総士は遠慮なく頭をあずけた。ほう、と息を吐くと、からだじゅうを満たしていた倦怠感も頭痛も、遠くなる。一騎がそのまま頭を撫でてきて、とろとろ、瞼が落ちそうになる。湯船で眠るのだけは避けなければならないとは思うが、もしそうなっても、一騎は特に躊躇うこともなく総士を抱きかかえて、からだを拭き、パジャマを着せ、寝床へ連れていくのだろう。実際そうされたことはないし、そこまでしてもらうつもりも――一応、今のところはないのだが、容易く想像はできる。
「お前に、甘やかされすぎて、溶けたら、どうする……」
ぽつりと呟くと、一騎がちいさく笑った。
「それ、乙姫ちゃんと織姫ちゃんに言われたなぁ。総士を甘やかせるだけ甘やかしなさい、だけど骨まで溶かしてしまったら、わたしたちが会えなくなってしまうからだめ、って」
「骨……」
つまり骨が残るくらいまでなら良いのか、妹たちよ。
かわいい彼女たちが口をそろえてそんなことを言ったのかと思うと、多少めまいがひどくなったが、あのふたりなら言いそうではある、と、納得もする。総士がふたりを溺愛しているのと同じように、ふたりも総士を――うぬぼれではない、客観的な事実だ――溺愛してくれていて、一騎に「総士をだいじにするのよ」「わたしたちのぶんもよろしくね」などと、家を出る際に言っていたのは知っている。
「骨まで溶かすようなつもりはないけど、俺が総士にしたいと思って、総士が嫌だって感じないことなら、いっぱいしてやりたい」
特にこういうときは、と、そう言って一騎は総士の濡れた額に口づけた。何度もされていることのはずなのに、妙に恥ずかしくて、ぶわ、と、頬が赤くなる。
「あ、風呂に浸かりすぎるのも良くないぞ。そろそろ出よう。停電してもいけないし」
総士の顔が赤くなったのを、のぼせたと勘違いしたのか、一騎はいそいそと湯船を出て、総士をゆっくり引っ張り上げる。妙に鈍感なところは、中学生のころから変わらない、一騎の愛すべき欠点だ。
風呂から上がると、窓の外の雨風はよりいっそう激しさを増していた。比例して、総士の頭痛もひどくなる。もしものときのために、と、一騎が風呂に水を張り、懐中電灯を持って総士の部屋にくるころには、総士はふたたびぐったりとベッドに沈んでいた。これはもう仕方がないことだ。
けれど、かつて、家族にさえ強がって、ひとりで布団で耐えていたころと今はちがう。
一騎が電気を消して、総士の隣に潜りこむ。エアコンは適温に設定され、そのうえで薄手の布団をかぶり、一騎が総士のからだをやわらかく抱き込む。ずきずきと痛む頭をやさしいてのひらが撫でて、だいじょうぶだよ、と、やわらかい声が言う。
がたがたと鳴る窓の音も、からだを絡めとるような重苦しい気圧も、確かにそこにあるのに、遠い。瞼がゆっくり落ちていく。明日の朝は、お粥がいいかな、お昼はちょっと豪華なもの作ろうか、一日中ベッドにいても大丈夫だぞ、なんて、総士のことを甘やかす言葉を子守歌にしながら、総士は夢のなかにしずんでいった。
2021.08.15
いつか設定膨らませて、なおかつ、でろでろに甘やかされる気圧弱城くんを書きたかったので、やっと続きが書けてよかったです。前作同様、双子は記憶があるふんわり転生設定がベースにあり、ゆえに今、島のためなどに生きる必要のない総士はもっともっと甘やかされればいいと双子は思って、一騎をけしかけています。