プロローグ
思い出すのはいつも、ひかりに輝く海の色と、おだやかな波の音。それから、砂のうえを踏み歩くしずかな足音。
両手にはぬくもりがあった。右の手は、壊れものをあつかうように、あるいは、触れ方がわからず戸惑うようにそっと。左の手は、力強く、離すまいとでもするようにぎゅっと握られている。どちらの手もそうしの手よりもずうっと大きい。そして、やさしかった。その手に撫でられるのも、抱きあげられるのも、だいすきだった。
なぜだかわからないけれど、その手はそうしを裏切らないし、そうしを守ってくれるという確信があったのだ。
「……そうし、うちに、来るか?」
左の手を握る彼が――一騎が、意を決するように、しかしおだやかに、そう言った。彼の言う“うち”がどこを指しているのか、そうしには、わからない。わからないが、そこには、その場所には、“ふたり”がいるのだということだけは、わかった。そうしの右の手を握る――黙ったままの総士の手に、ぎゅっと力が入った。
そうしは、だいじょうぶだよ、と、言いたくなった。だいじょうぶ。そんなに心配しなくっても、怯えなくっても、僕はここにいるよ。そんなふうに、言いたくなった。だけれど、そうしにはまだ、それを伝えるだけの言葉が備わっていなかったから、ぎゅうぎゅうときつく、ふたりの手を握りしめる。
「いく! ぼく、かずきと、そうしのとこに、いきたい! いっしょに、いたい、よぉ」
いっしょがいいよ、と、そう口にしたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。たぶんずっと不安だったのは、そうしもおんなじだった。
そうしは、ふたりの血のつながったこともではなかった。どういうふうに自分が産まれたのかを、そうしは知らない。産まれてから今日まで、ほとんどの時間を親戚のうちで過ごしてきた、ということだけは理解している。自分を産んだひとはもういないのだ、と。親戚はとてもいいひとたちだった。困ったことなんて、嫌だったことなんて、一度もない。けれど、その家にたびたび顔を出す一騎と総士に、そうしは誰よりも懐いた。ふたりと一緒にいると安心した。だいすきで、ずっと離れたくないと思って、いつもふたりが帰るころになるとぐずっていやいやと駄々を捏ねた。
ふたりは「家族」ではなかった。そうしと同じ家に住んでいるわけでもないし、「親」でもない。だから、離れなければならない。それが、そうしはずっと悲しかった。
だけど、もう、いいのだ。さようなら、またね、と、ふたりを見送らなくってもいいのだ。“うち”に行けば、一騎と総士がいる。一緒にごはんを食べて、遊んで、おしゃべりをして、一緒の布団で眠れるのだ。離れなくって、いいのだ。それはなんてうれしいことだろう、と、そうしは思った。
「うっ、ひぅ……、うああぁぁぁん」
「そうし、おいで」
顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き出したそうしを、一騎の腕がしっかりと抱きあげる。とん、とん、とやさしく背中をたたく手は、総士のものだった。ふたりのぬくもりに挟まれて、安心して、もっと涙はあふれてくる。
これは、産声だった。
そうしにとって、二度目の産声だった。
「ああぁぁん、うわあぁぁん」
「うん、……うん、いっしょに帰ろうな、そうし」
「もう大丈夫だ、そうし。僕らはお前から、離れることはない」
その言葉が、ぬくもりが、そうしにとって、生きるためにどうしようもなく必要なものだった。
あれは、あの日は――そうしがやっと、息をするための居場所を、得た日だった。