なんでもない春の一日
ジリリリ、と、耳障りな音がけたたましく響いた。
不愉快な音は、それゆえに、絶対に起きて止めなければという気になるだろう、と言って、自分とおなじ名を持つほうの親に設定されたものだった。いや、そもそも僕は総士ほど寝起きが悪くはないんだけど、と、思いながらも設定を変えていないのは、やっぱりこれがいちばんうるさくって目が覚めるからだ。
もぞもぞと布団のなかから手を伸ばし、鳴り続けるスマートフォンを手に取って、アラームを止める。ゆっくり起き上がって、うーんと伸びをすると、まだすこし冷たい空気が肺を満たした。時刻は午前七時半。今日から春休みだから、いつもより少し遅い起床だった。扉の向こうでは物音がしているから、親たちはとっくに起きて動いているらしい。
そうしの部屋である、六畳一間の角部屋にはふたつ窓がある。カーテンを引いていても、まばゆい朝日が部屋じゅうを明るくしていた。和室にカーペットをひいて、ベッドと学習机と本棚を置いただけの部屋は、簡素だけれど、そうしは気に入っている。この家を一騎と総士が買ったとき、いちばんに「どこでもお前の好きな部屋を選んでいいよ」と言われて、選んだ部屋だからだ。
そうしは、もうすぐ中学三年生になる。
この家に引っ越して来たのは、小学校に上がる年だった。血のつながっていない一騎と総士のこどもとして引き取られたのは三歳になるころで、小学校に上がるまでは、ふたりの故郷である、瀬戸内海のちいさな島で育てられた。当時、彼らはまだ二十になったばかりで、一騎は調理師として、総士は文筆家として、働きはじめて間もなかった、らしい。らしい、というのは、こどもだったそうしには、そういったことはよく分かっていなかったからだ。
こどもひとりを育てるには当然いろいろと要りようで、ふたりにはその能力があると認められたから、そうしを引き取ることができたのだが、なにも不安がなかったわけでもないだろう。暫くは知っているひとたちのいるところで手を借りながら、と考えられた結果、一騎の実家で、五人で暮らすこととなった。五人、というのは、一騎と総士とそうし、そして、一騎の両親だ。とはいっても、一騎の母である紅音は飛行機乗りで、家にいないことがほとんどであったから、よく面倒を見てくれたのは、一騎の父である史彦だった。
もちろん、一騎と総士も、周りから「過保護」と言われる程度に、そうしにあれこれと構ってくれて、寂しい思いをしたことなどほとんどない。島にいる他のこどもたちとも、仲良くなった。
しかし、もとから島を出て暮らそうと考えていた一騎と総士は、そうしがちょうど学校に通い始めるタイミングで移住を決めていたらしい。そもそも、島のなかには、学校がない。小学校までは隣の島へ漁船で連れて行ってもらって通えるけれど、中学校から先は、下宿先を見つけて島を出なければいけなかった。そのこともあっての移住だったのだろう。
島の友達や祖父母――と、史彦と紅音のことは呼んでいる――と離れるのは寂しかったが、新しい場所での生活、というのに、そうしはどこか、わくわくするきもちのほうが、大きかった。
もうすぐここがうちになるよ、と、そう言って連れて来られたのは、島から船を乗り継いで一時間以上もかかる陸地のまちだった。瀬戸内海に面したまちは、島とおなじような風のにおいがして、おだやかな空気が流れていた。山を背にして、海とのあいだにわずかに広がった平地には島にはなかったような店がたくさんあって、電車も通っている。山手には坂道がずっと入り組んで広がっていて、新しい家は、その中腹に位置していた。
ずうっと昔には人が住んでいたという古い空き家は、少しずつ手直しされて、見た目は古めかしいけれど、中は暮らしやすいように改良されていた。ちいさな庭のある二階建ての家で、一階に居間と台所、和室が二つ、洋室が二つ、と、なかなかの広さだ。二階には和室が二つだけあって、そこへは、急な階段を上っていかなければならない。しかし二階からの眺めは絶景で、海や、すぐ向かいにある島がちょうど見下ろせた。
「そうしが好きなところを、自分の部屋にしていいんだよ」
そう一騎に言われて、そうしは全部の部屋をくまなく見て回った。どの部屋もいいなと思ったけれど、最終的に、角部屋で、大きな窓がふたつある今の部屋を気に入って選んだ。
残りの部屋は、一騎、総士、それぞれの寝室と、総士の仕事部屋に割り振られ、二階は客間ということになった。
島に唯一ある料理屋で働いていた一騎は、引っ越してから、商店街の喫茶店で働きはじめ、総士は変わらず、家で物を書いて暮らしている。近所の人はやさしくて親切だし、学校でともだちもできた。そうしは、今の生活が、とても幸せだな、と思っている。
――一騎に「うちに来るか」と訊かれた日のことを夢に見たせいか、ぼんやりとした寝起きの頭で思い出しながら、そうしは、くあぁ、と、ひとつ欠伸を零した。すると、タイミングを見計らったかのように、とんとん、と、扉を叩く音がする。
「そーしー、起きたか? 朝飯できてるぞ」
「あっ、うん! 今行く!」
大きな声で返事をすると、扉の向こうの一騎はちょっと笑ったようだった。
*
「フレンチトーストだ……」
「休みのはじまりの朝食は豪華なほうがいいだろ。総士もやっと締め切りが明けたしな」
居間の卓袱台に並んでいたのは洋風の朝食だった。史彦が生業でつくっている、ちょっと形がいびつな――それがおしゃれだと言われて売れるらしい――白い皿のうえに、バターとたまごをまとって黄金色にひかるフレンチトーストがどんと乗っかっている。ぱりぱりに焼かれたソーセージとスクランブルエッグ、みずみずしいサラダとコーンスープ、ジャムの乗ったヨーグルトまで添えてある。これを完璧と呼ばずして何と呼ぶのか。一騎の勤める喫茶楽園の土日限定モーニングだってここまでではないはずだ。
一騎のつくる朝食は何であれ美味しくて一日の元気をもらえるけれど、これは滅多にお目にかかれない別格だった。目を輝かせながら「何か運ぶものある?」と声をかけると、「飲み物はセルフサービスだぞ」と台所に立っている一騎が笑った。
居間とガラス戸を隔ててつながっている台所は狭い。一騎とそうしが立つといっぱいになる程度の広さだ。水回りやコンロは新調されているけれど、全体的には何十年と使い古された趣がある。
使い終わった調理器具を洗っている一騎の背後で冷蔵庫を開けて、オレンジジュースをコップにそそいでいると、居間の畳がきしっと音を立てた。
「おはよう」
「おはよう、総士」
台所にひょこりと顔を覗かせたのは総士だった。そういえば、こうして朝に姿を見るのは数日ぶりだ。締め切りが重なっている、と言って、げっそりした顔で部屋にこもりがちだったけれど、さきほど一騎が言ったようにすべて仕上げ終わったらしい。きちんと身だしなみを整えているし、目の下の隈もない。
疲れ切った顔を子どもに見せたくない、という気持ちがあるらしく、いっぱいいっぱいになると、総士はそうしと顔を合わせたがらない。幼いころはそうでもなかったが、そうしに物心がついてから、余計に気にするようになった。もちろん一日一回はどうにかこうにか体裁を取り繕ってそうしに顔を見せるのだけれど、無言でぎゅうぎゅうと抱きしめて唸ったかと思うと、謝って部屋に消えていく、ということが多い。「あれは、そうしを構っているつもりで、本人が充電している」とは一騎の談である。もはや癖なのか、そうしも慣れてしまっているし、触れると安心するのは確かだったから、特に文句を言ったことはない。
「総士、飲み物、何が良い? 珈琲?」
「それくらい自分でやるぞ」
「いーよ、僕、今日から休みだし、時間あるから。それに回数こなしたほうが、淹れるのうまくなるだろ」
それとも一騎の淹れた珈琲じゃないと飲めないのか、と、ちょっとくちびるを尖らせると、総士はほほえんで、そうしの頭へ手を伸ばす。
「いや。久しぶりに、お前の淹れたものをいただこう」
よしよしと頭を撫でて、総士は満足そうに「先に持って行っておく」とそうしが手にしていたオレンジジュースのコップを持ち、居間に戻って行った。撫でられるのは幼いこども扱いのようでちょっと恥ずかしいときもあるが、きらいではない。この家の親たちは、ひょっとすると、同年代の他の家の親よりもスキンシップが多いかもしれないが、そうしはこれが当たり前だと思って育ったので、特に気にしてはいない。
棚の中から、総士が気に入っている店で少しずつ買ってくる珈琲豆を取り出す。一気にたくさん買わないのは、鮮度が落ちてしまうから、らしい。そうしは珈琲が得意ではないが、喫茶店でも家でも毎日豆を挽いている一騎を真似て淹れることは好きだった。飲むのはもっぱら、総士である。総士だって自分で珈琲くらい淹れるのだが、「ひとの淹れたもののほうが美味い」と言って、自分が淹れたものは一騎にばかり飲ませている。
「いい香りだな」
くるくるとミルで豆を挽いていると、洗い物が終わったらしい一騎が、そうしのそばで、くん、とにおいを嗅いだ。
「一騎って毎日珈琲のにおいに囲まれてて、なんていうか……こう、麻痺しないのか?」
「うーん、しないなぁ。むしろ、研ぎ澄まされてきたかな。昔のほうが、においの違いなんて全然分からなかったよ」
「ふーん」
そういうものなんだ、と、思いながらフィルターをセットして、ドリップポットにお湯をそそぎ、挿してある温度計が適温を示すのを確認する。一騎が隣でじっと見ているせいで、緊張してしまう。思わず「あ……、合ってるでしょ?」と確認すると、「うん」となぜだか嬉しそうに頷かれた。せめてちょっと視線を外してくれないだろうかと思いながら、挽いた豆をフィルターに入れて、できるだけ平らにする。すこしお湯を落として蒸らしたら、円を描くようにくるくると手を回しながら残りの湯をそそいでいく。総士は苦みのある珈琲が好きだから、すこしゆっくり、けれど、渋みまでは出ないように、いい加減のところで湯をそそぐのをやめる。これが、とてもむつかしい。なんとなく、これくらいかな、と思いながら手を止めると、横で一騎がうんうんと頷いた。
「うまくなったなぁ、そうし」
「そ、そう? ほんとうに?」
「ああ。店で、賄いなら淹れてもいいくらい」
「やった!」
前回までは「店で」まで辿りつけていなかったから、うれしい。
総士愛用のマグカップに淹れたての珈琲をそそいで、席に着き、三人で「いただきます」と手を合わせた。
*
一騎の勤める喫茶楽園は、通常、昼前に開店する。モーニングは土日限定だ。商店街には昔からの喫茶店が多く、平日にモーニングを提供する店は数多ある。当然、固定客もいる。楽園はそのなかでは比較的新しい店だし、商店街は通勤前の会社員たちが立ち寄るような立地ではないから、開けていても大して客が入らないのだという。
そんなわけで、九時前に家を出て行く一騎を総士とふたりで見送って、そうしは洗い物を総士に任せ、庭で洗濯物を干すのを請け負った。そんなに広い庭ではないが、三人分の洗濯物を干すにはじゅうぶんな幅がある。
高い塀の内側にはぽつぽつと木々や草花が植わっていて、大きなひらべったい庭石がふたつ並んでいた。洗濯物を干し終ったら、その庭石の上に、いくつか器を置いて、水と餌を入れる。このあたりの地域猫のためだ。餌やりはうち、と、引っ越して来てから決まっていて、猫もちゃんとわかっているらしく、おおよそ同じような時間にやってくる。
うにゃぁ、と、ちいさな声がして、顔を上げれば、塀を乗り越えて猫が二匹降りてきた。
「おはよう」
ふさふさとした、ミルクティーみたいな長毛の猫と、人懐っこい短毛の黒猫は、いつも朝一番の常連だった。よしよしと撫でてやると、黒いのはごろごろ言いながら頭をおしつけてくる。ミルクティー色のほうは、ふい、と、顔を背けて、餌を入れた器に向かった。
「……ちょっと似てるんだよなぁ……」
黒いのが後を追うように餌のほうへ向かって、そうしはぽつりとつぶやいた。なんとなく、色味といい、性質といい、似ている。うちの親に。
「そうし、終わったか? お茶でもいれよう」
「あ、はーい!」
洗い物と片づけを終えたらしい総士に呼ばれて、じゃあな、と、もういちど二匹を撫でてから居間に上がる。手を洗ってから座布団に腰をおろすと、総士が温かいお茶をいれてくれた。啜りながら、ぼんやり、目の前で同じように湯呑を口にしている顔を見つめる。
長い、亜麻色の髪。紫がかった灰色のひとみ。パソコンに向かっているときは眼鏡をしているが、今は外されている。ふんわり後ろでゆるく結ばれた髪は、触ると心地いいことをそうしは知っている。生まれて十四年ほど、ずっとそばで見てきたけれど、歳を経るごとにこのひとは、きれいになっている気がする。
血はつながっていないはずなのだが、どこかで関係があったのか、そうしは、総士によく似ている。髪の色も、ひとみの色も、声質も。名前は偶然の一致だったらしいけれど、意外に、日常生活では困っていない。なんとなく周りのひとが呼ぶ「総士」と「そうし」にはちがいがあって、それがわかるからだ。
口にしたことはないが、そうしが髪を伸ばしはじめたのは、総士にあこがれがあったからだ。ちいさなころから、ふわふわ揺れる総士の髪がすきで、いいな、と、思っていた。今はそうしの髪もずいぶん伸びて、いつもひとつに結っている。朝、たとえ締め切りが立て込んでいても、だいたい総士がやってくれる。自分の髪に触れるやさしい指先が、そうしはだいすきだった。
「なんだ、僕の顔に何かついているか?」
「んー……」
きれいだなと思って、などと、まるでもうひとりの親のように口にはできなかったので、べつに、と、言って誤魔化した。きれい、かわいい、だいすき、が口からぽんぽん飛び出すのは一騎だけでじゅうぶんだ。あんなに言ったら擦り切れてありがたみもなくなるだろうと思うのに、一騎のそれはいつだって総士やそうしを貫いて動揺させるので、おそろしい。あれにはなにか、魔力みたいなものがある。
「一騎、そろそろ忙しくなるのかなぁ」
話題をそらすために、庭のほうを見ながらぽつんとつぶやいた。
塀から乗り出すように伸びた桜の木が一本、庭にある。枝にはぽつぽつと薄桃色のつぼみがついて、なかには開きかけているものもある。今年は暖かく、開花は例年よりも早いとニュースで言っていた。このあたりは観光地になっていて、桜の名所でもある。桜が咲き始めると多くの人が訪れて、商店街の飲食店はたいてい満席になって、外に人が並ぶ店も多い。喫茶楽園もそうだった。昔ながらの喫茶店、という雰囲気はこのまちに合っているのか、観光客には好まれるのだ。そして一騎の作る料理と、淹れる珈琲は、贔屓目を抜きにして美味しい。何回か雑誌に載ったこともある。一騎はそういうのをあまり好まないのだけれど、オーナーであり、史彦と昔なじみである溝口は「宣伝しでなんぼ」というひとだから、取材が来れば受けてしまうのだ。
ああ、と、総士はうなずいて、そうしと同じように庭の桜に目を向けた。
「もう客足はだいぶ増えていると言っていたからな。春休みも始まったし、しばらくは喫茶店も混むだろう」
「じゃあ、あんまり行けなくなるかな」
そもそも、中学生のお小遣いでは、そうそう頻繁に行けるところではない。ときどき客のいないとき、学校帰りなどにひょこっと顔を出すと、「内緒」と言ってクリームソーダなどをこっそりご馳走してくれるけれど、あれは、実はちょっと後ろめたいから、その代りに店の中のテーブル拭きなどを手伝ってから帰るようにしている。
いちばんすきなのは、総士と一緒に行くことだ。仕事をしている一騎を存分に眺めながら、遠慮なく、美味しいものを食べられる。総士も一騎が喫茶店に立っている姿がお気に入りで、嬉しそうだから、そうしもそれにつられて笑顔になる。
そんなことを考えていたら、「行くか?」と総士が言った。
「え?」
「混んでしまう前に行きたい、ということかと思ったんだが、ちがったか?」
くすりと総士がほほえむ。見透かされたのがうれしいような、恥ずかしいような、そんな心地で、でも行きたいきもちのほうが大きかったから、「うん!」と大きくうなずいた。
春のひざしはやわらかい。
総士が古びてなかなか閉まらない玄関の鍵を閉めるあいだ、そうしはぼんやりと、家から下へ続く景色をながめる。
この家は、玄関を出て数段の階段を降りるとちいさな門があって、そこを一歩出ると、山頂からずっとくだってきている細い階段につながっている。このあたりの家はどこも斜面に沿って建っているので、慣れない人は、ちょっと平衡感覚がおかしくなるらしい。一階にも二階にも入り口がある、というような家も多いからだ。そしてたいてい家の前には細い階段か坂道しかないので、徒歩でしか移動ができない。ところどころ二輪車なら出入りができる道もあるが、総士の家には手紙も荷物も配達員が走って上って持ってきてくれるし、ゴミだって担いで降りるしかない。そういうところだ。
「あれ?」
一歩、家の前の階段を降りて、そうしは目をまたたかせた。
隣――というよりは下になるのだが――の家に、せっせと早足で段ボールを抱えて上がっては降りるひとがいた。段ボールには見慣れた引っ越し業者のロゴマークがある。
「なぁ、総士、隣って誰か引っ越してくるのか?」
鍵を閉め終えた総士が「ああ」と思い出したようにつぶやく。
「この前、お前がいないときに、あの家の大家さんが挨拶に来たんだ。お前と同年代くらいの子が、ひとりで越して来るらしい。今日だったんだな」
「僕と同じくらい……?」
そういえば、クラスの誰かが、新学期に転校生が来るらしいって噂をしていたっけと思い出す。
「もしかして、そいつがそうなのかな」
「そうなのかもしれないな。……楽しみか?」
好奇心に目が輝いたのがばれたのかもしれない。総士がそうしの顔をちょっとのぞきこんで言う。
「うん。転校生って初めてだし、もしクラスメイトじゃなかったとしても、家が隣なら一緒に学校行けるしさ。僕と同じくらいでひとり暮らしって、すごいよな。不安じゃないのかな。――あ、もし仲良くなったら、うちでご飯一緒に食べてもいい?」
「気が早いな、お前は」
くすくすと笑いながら、「もちろん、いいさ」と総士は言った。
「お前と同じ年頃でひとり暮らしでは、いろいろと、大変だろう。大家さんからも、気にかけてほしいと言われているんだ。ただ、無理強いはだめだぞ」
「わかってるよ!」
段ボールのすきまから、ひょこっと動く黒い頭が見えたけれど、作業中に邪魔をしてはいけないだろうと、そうしは声をかけるのは後にして、総士と一緒にふもとの商店街まで降りて行った。
*
ふだんの平日の商店街は、ぽつぽつ観光客の姿はあっても、ほとんどが地元の人ばかりで、それほど人通りも多くない。けれど、総士の言うとおり、今日はすれちがう人の数が多く、いかにも観光客らしいひとびとの姿も増えていた。
喫茶楽園は商店街のなかほどにあって、アーケードの通りに面している。お昼前だから満席にはなっていなかったけれど、そうしたちを迎え入れた一騎は、「今日は混みそうだな」と零していた。
磨かれてつやつやとしたダークブラウンの木目の床に、落ち着いたオレンジ色のあかりが反射してきらきらしている。いちばん奥の角の席に向かい合って座ったふたりは、それぞれメニューを開いて唸った。何度も来ているというのに、この、悩む時間はいっこうに短くはならない。そして意外にこういうとき、そうしより、総士のほうが優柔不断なのだ。
「僕はAランチと桜のクリームソーダにする。総士は?」
「ま、待て……、今日の日替わりランチのAとBまでは絞った」
「それ全然絞れてないじゃん」
ちなみに今日のAランチはカレーソースのハンバーグ、Bランチは地元の藻塩でいただく唐揚げだ。地元野菜のサラダと季節に応じたスープにご飯がついてくる。総士はランチタイムにくるとだいたいAとBの二択で迷うから、定番メニューのナポリタンやカレーライスをあまり食べない。それらは家で、一騎いわく「家でしか作らない」味で食べられるから、というのもあるだろうけれど。
ふだんは何でも即決なのにな、と、思いながら「Bにしなよ」とそうしは言った。
「僕のハンバーグひとくちあげるから、総士の唐揚げひとつちょうだい。それでいいだろ?」
「……真っ当な提案だ。だがそれだと食べ盛りのお前には足りないだろう。もうひとつなにかデザートを頼むといい」
「じゃあアップルパイ」
足りないことはないけれど、総士なりの気遣いらしい提案に乗って、一騎を呼ぶ。まだそんなに他の客がいないからか、注文を取った一騎は家でするみたいに、「お前ら仲いいなぁ」とふにゃふにゃ笑った。
「仕事じゃなかったら、俺もナポリタンとかカレーライスとか頼んで分けっこしたかった」
「家でいくらでもできるだろう」
「家だとそもそも大皿だろ。違うメニューを分け合うってやらないじゃないか。あ、そうか、そういうメニューにすればいいのか」
「……そんなにしたいの?」
すこしあきれ顔でそうしが言うと、「だって、分け合うって、美味しいしうれしいだろう」と一騎がほほえむ。そうしが何か口にする前に、他の客に呼ばれて去って行ったその背中を見ていると、総士が「あいつは昔からそうだ」とちいさく笑った。
「ずっと昔から、僕となんでも分け合おうとしたし、僕だけではなく、自分のなにかを誰かと分け合うこと、――時には自分のすべてを与えてしまおうとするところがある」
「……総士は、心配なの?」
「そうだな。昔はそうだった。……だが今は、お前がいるから。僕もあいつも、分け合うのも、分かち合うのも、なにかを与え、与えられるのも……なにより、それは、お前に対してのものだ。それについて僕は何も心配していない」
ぼくらはお前を、なによりも、あいしている。
言外に滲むのは何度となく言葉で、態度で、伝えられてきたおもいだ。それをそうしはよく知っている。憶えている。
ときどき、不思議に思うことがある。一騎と総士はふたりでひとつだ。仲が良くて、互いを信頼していて、互いを敬っていて、きっとこの世界からいなくなるそのときまで、ずっと一緒なのだと、誰も疑わないくらいに、ひとつだ。――そう、ふたりのままでも、良かったはずだった。ふたりで生きていて、なにも、困ることなどなかったはずだった。それなのに、ふたりは、そうしを引き取った。懐かれたから渋々、などということでもなく、誰かが育てなければ、という、責任感からでもない。ただ、ただ、そうしにとってふたりが居場所だと思えたように、ふたりは、そうしを、こどもだと思った。自分たちの子だと。そしてこうして、当たり前に、疑うこともなく、そうしは彼らの愛情を信じている。その温もりをあいしている。不思議だと思う。
ふとした瞬間に浮かぶそれは、日常のあちこちで光っている。台所で朝ごはんを作っている一騎の背中におはようと声をかけるときにも、寝癖のある髪の毛を梳いて結ってくれる総士が、ポニーテールの出来に満足そうにしているときにも、夕方、八百屋の前で新鮮なトマトを選んでいるらしい一騎に出くわしてただいまを告げるときにも、徹夜明けでそのまま眠っていたのだろう卓袱台の総士を起こして、ただいま、おはようを告げるときにも。
不思議、のあとにあるのは、うれしい、という感情だ。よかった、という安堵だ。ここにいてよかった。ふたりといられて、うれしい。
ハンバーグと唐揚げで悩んだかわいらしいところもある親に、「僕も半分こも、分けっこも、すきだから、遠慮しなくていいから」と言えば、楽しそうに笑われた。
お待たせ、と、一騎の持って来たあつあつのご馳走たちはそれはそれは美味しそうなにおいでふたりを誘い、きらきらと目を輝かせると、「早く家に帰りたいなぁ」と一騎が言って、「三人でいれば、どこだって、家みたいなものだけどね」と、そうしは切り分けたハンバーグを総士の皿にのせてやりながら言ったのだった。