潮風とポニーテール
隣の家には、お節介が住んでいる。
「マリス、おはよう!」
相変わらず朝から元気だなと思いながら、マリスは顔だけ背後へ向けて、「おはよう」と返した。玄関の扉が閉まっていることを確認して振り返れば、亜麻色のポニーテールを揺らした来訪者は「早く行こう」と急かすように言う。門もない家のすぐ前には細長い階段がのびていて、その段差を気にすることもなく、彼はぴょんぴょんと飛び跳ねた。
山を背にして目の前に穏やかな海が迫る街は、平地の面積が少ない。海側の平地と、山側を分断するように線路が走り、まるでそれに追い立てられたかのように、人の暮らす家は山に沿うように上へ上へと広がっていて、各々の家のまわりは狭い坂道や階段でひしめきあっている。その陸地の向こう、海を挟んですぐ向かいには島が連なっていて、海――というよりも大きな河のようにも見えるため、水の道だと、ひとは言う。つい先日までは見たこともなかったはずの景色が、いつの間にかマリスの日常のひとつになって久しい。マリスがこのまちに引っ越してきたのは、桜が舞う三月の終わりだったが、今はもう六月の終わりだ。徐々に風はなまぬるくなり、海は青さを増している。
日常、といえば、目の前の少年もそうだ。来る日も来る日も飽きもせず、彼はマリスを迎えにやってくる。約束などした覚えはないのだけれど、必ずいつも同じ時間に家の前で待っているのだ。一度だけ、彼が来る時間よりもずいぶん早くに家を出てみたら、それはもうしょんぼりとした顔で遅刻ギリギリに教室へ入ってきたものだから、さすがに良心が咎めて、以来、なんだかんだと毎日同じ時間に家を出るようにしている。
――それは「約束」と大して変わらなんじゃないか?
わかっている。わかっているが、認めたらなにかが負ける気がしている。
ポニーテールを揺らして上機嫌の彼――そうしは、マリスがとなりに並ぶのを見やって、階段をくだりはじめた。家々の隙間を縫うようにくねりながら続いている階段は、いくらかくだると平坦な道にぶつかって、それからまた、下へ向かう坂道につながっていく。山の下側にある中学校への道のりは、距離にすればさほどでもないが、うねうねと迷路のような道を辿るせいで直線距離よりも時間はかかる。帰りは坂と階段を上らなければならないから、余計だ。マリスは体力があるほうで、殊更にしんどいとは感じていないけれど、よくもまぁこんなところに人がたくさん住んでいるものだな、と、思う。
そんな道をひょいひょいと軽快な足取りで進みながら、そうしがことんと首をかしげた。
「マリス、ちゃんと朝ごはん食べたか? 前も言ったけど、うちに来て食べてもいいんだぞ」
「いいよ、そういうの。何も食べてないわけじゃないから。ひとの家に行くの、苦手なんだ」
マリスの答えに、そうしはすこし残念そうな顔をする。このやりとりも、頻繁にくりかえされていて、何度目かすらも忘れた。
そうしは、マリスの家の隣に住んでいるクラスメイトだ。マリスが引っ越してきたその日に、うれしげに声をかけてきたのが、ふたりの関係のはじまりである。
マリスには親がなく、物心つくころには養い親に育てられていた。暮らしていたのは、開発が進んだ島だった。造船や鉄鋼業がさかんな島で、陸から離れているとはいっても、特に不自由さを感じたことはない。
養い親はいったい何を生業としているのか、息子であるマリスにすらも未だ不明なのだけれど、とても不思議なひとで、ふらりと家からいなくなることもしばしばだった。生活に必要なものは整えてくれていたから、困ったことはない。開発が進んでいるとはいってもちいさなコミュニティだから、手を貸してくれるおとなもたくさんいた。――けれど、それがどこか、息苦しくも感じていた。
笑顔でやさしく接してくるおとなも、穏やかでおさないこどもたちも、自分からはひどく遠いものに思えてならなかった。それがなぜなのかは、わからない。ただ、ここが自分の居場所ではないような不安定さが、ずっと、こころのうちにあった。
それに気づいていたのは養い親で、中学校に進学して一年が経とうかというころ、どこからともなくふらりと帰ってきた彼は「ここが嫌なら、ちょっと外に出てみたらどうかな?」と、そのへんにおつかいに出すかのような軽さで、あれよあれよという間にマリスの転校手続きや住む家の手配を済ませてしまったのだ。これには、養い親の奔放っぷりに慣れていたマリスも面食らった。
「ふつう、本人の意思を尊重するものじゃないのか?」
「そうは言うけど、君、自分のことに関しては、結構優柔不断だよね」
だから僕が全部用意してあげたよ、と、良いことをしたと言わんばかりの笑顔を向けられて、マリスは島から出るためのフェリーの切符を手渡されたのだ。
今思えば、それを素直に受け取る必要はなかったのだろう。マリスが本気で拒めば、彼も引き下がったにちがいない。
顰め面をしながらも切符を受けとり、荷物をまとめてしまったのは、マリスがここではないどこかへ出たいと、そう思っていたあかしだった。
引っ越してきたまちは、島ではないけれど、島によく似たみなとまちだ。フェリーから見ると、山の斜面にびっしりと家々が並び、山と海のあいだに檸檬色の電車が走る風景が、まるでミニチュアみたいだった。
マリスに用意されていた家は、山側の中腹にあった。長いこと空き家になっていたらしい家は、外観こそ古めかしいけれど、新しい住人をむかえるために、家のなかはきれいに整理されていた。平屋で、六畳間がふたつだけあるちいさな家は、ひとりで暮らすにはじゅうぶんな大きさだ。たいして多くはない荷物をほどき、これからの生活のために、買い出しをする店がどこにあるかだけでも確認しておこう――と、玄関を出たところに、まんまるい灰色のひとみをもった少年が、ぽつんと立っていた。
「あっ……、こんにちは! 引っ越してきたのって、お前か? 僕は隣の家の皆城総士。よろしくな」
「は……」
にこにこ笑って手を差し出してくる突然の来訪者に、マリスは面食らった。
おそらくは、誰も住んでいなかった隣の家でごそごそと動く人間を見つけて、声をかけようと思っただけなのだろう。ちらりと隣――といっても、斜面に沿っている家だから、ひとつ上、といったほうが、正しい――を見上げれば、石垣の上に、塀に囲まれた家の影が見える。マリスの家よりも大きそうで、門もある。古びていることには変わりないから、昔からある家なのだろう。そういえば、この家の大家に、「何かあったら隣の家に声をかけていいからね」と言われていた。事前にそういった根回しがあったのかもしれない。
ちいさな地域に引っ越してくるものは目立つだろうから、これはなにも、変わったことではない。そう言い聞かせて、マリスはあたりさわりのない笑顔を浮かべ、「よろしく」と差し出された手を握り返した。
話を聞けば、彼はマリスが通う予定の中学校に通っている同級生で、転校生がくるという噂を耳にしていたらしい。だから、空き家になっている隣の家に越して来たマリスを見て、クラスメイトになるやつかもしれないと、声をかけようと思ったようだった。
いろいろな質問を投げかけられたあと、家族は、と訊かれて、いないよと答えたとき、そうしは目をまんまるく見開いた。
「ひとりなのか?」
「そうだけど」
「ご飯とか、どうするんだ?」
「……それくらい、ひとりでもできるよ」
養い親がふらふらいなくなるせいで、家事一般はじゅうぶんひとりでこなせるようになっていた。しかしそうしは不安そうな顔をして、「できても、さみしくないのか?」と首をかしげた。
素直なやつだな――と、マリスは思った。島でも心配して声をかけてくるおとなはいたけれど、そうしのそれは、まるで、自分が誰かに置いていかれたこどものような反応だった。裏表のない、おさなくて、純粋なこどものような。自分と同い年にしては素直すぎるような彼の表情や言葉に、マリスは自然と笑っていた。
「さみしいって言ったら、どうにかしてくれるのか?」
すこし意地悪のつもりだった。このままずるずるとあれこれ世話を焼かれるのもめんどうだったから、むっとして去ってくれればそれでいいと、そう思っていた。けれどそうしは予想に反し、顔を上げて、ぱっと笑顔になったのだ。
「うちに来いよ!」
「は……?」
「僕もずっとむかしは家族がいなかったけど、今は一騎と総士がいて……、あ、僕の親なんだけど、一騎は商店街で喫茶店をやってて、料理がすごくうまいんだ。総士はいろんなものを書いてて、家にいることが多いんだけど、ふたりとも、友達をいつでも連れて来ていいって、いつも言っているから」
――いや、ともだちになったつもりなんか、ないんだけど。
マリスはそう思ったけれど、そうしのなかでは、すっかりマリスのことは「ともだち」の枠に入ってしまっているらしかった。引っ越してきたら蕎麦食べるんだよな、一騎ならすぐ作ってくれるぞと、もうその日から家に呼ぼうとするものだから、マリスは丁重にお断りをした。
しかし、それ以降、そうしは毎朝マリスを迎えに来るし、放課後も一緒に帰るし、家への誘いもいっこうにあきらめてはいないのだった。
――ほかにともだちがいないわけでもないのに、どうして、マリスにばかり構うのだろう。
そうしが歩くたび、ぴょん、ぴょん、とポニーテールが左右に揺れる。物書きをやっているほうの親も髪が長く、慣れているから、毎朝きれいに結ってくれるのだ、といつだったか言っていた。
ふたりの親となかよく歩いているそうしを商店街や坂道で見かけることはよくある。産みの親はとっくに亡くしてしまって、ちいさなころから、ふたりに育ててもらったのだという。血のつながりなど関係なく、マリスには彼らがしあわせな家族に見えた。
だから――だからきっと、どれだけそうしに誘われても、あのなかへ入っていこうというきもちに、なれないのかもしれない。あの島のなかで感じていた閉塞感とおなじものに、触れてしまうような気がして。
「なぁ、マリス。夏休みに入ったらさ、おじいちゃんのいる島に行くんだ。その気になったら、お前も来いよ。海で泳いで、流しそうめんして、すいか割りするんだぞ。絶対たのしいからな」
おせっかい。
マリスがそんなふうに過ごすことが決して得意ではないと、きっともう知っているくせに。それでもそうしに言われるのは、どうしてか、不愉快ではないのだ。
ゆらゆら、揺れるポニーテールのむこうに、知っているけれど、知らない潮のにおいがする。しあわせに招く白い手は、マリスの手をひょいっととって、お前の手って夏でもつめたくっていいなぁ、と、なんでもないことのように頬にあてた。