ひなたのねこ

「ねこみたいだったな」

 ぽつんとつぶやいた言葉に、居間でノートパソコンに向かっていた総士が「なにがだ?」と首を傾げた。原稿に集中しているときの総士は一騎が何を言っても聞こえないのだが、今はどうやら話に詰まって集中力が途切れているらしい。それならば、と、買い出してきたものを冷蔵庫に収めきった一騎は、珈琲を淹れるために薬缶を火にかける。その音に気づいたらしい総士がいそいそとやって来て、戸棚から好みの珈琲豆を出し、ミルで挽きはじめた。

「そうしが、ご飯に呼びたいって言ってる、隣の子がいるだろ?」
「ああ……たまに見かける黒髪の……」
「そうそう」

 長いこと空き家だった隣の家に、春に引っ越してきたのは一人の少年だ。そうしとクラスメイトのその子は、そうしが何度食事に誘っても「そのうち」と言ってかわしてしまうらしい。どうしたら呼べるんだろう、と、そうしはずっと悩んでいる。その子が望んでいないのならば、無理に誘わないほうがいいんじゃないか、とは言っているのだが、「あいつ絶対、あまのじゃくなんだ」とそうしは言う。
 そうしは昔から、周りのひとの感情に敏いこどもだ。ひとりひとりをよく見ているし、必要以上に気を遣ってしまうところもある。その彼が言うのだから、マリスという件の少年は、いろいろと、秘めているものがある子なのかもしれない。
 これまで一騎は、マリスの姿を目にすることはあったけれど、言葉をかわしたことはなかった。隣に住んでいるとはいっても、一騎と中学生の彼では生活時間帯がちがう。一騎が店主をしている喫茶店は不定休だから、土日に会うということもあまりない。
 しかし、たまたま今日、買い出しの帰り道ですれ違ったのだ。平日の昼間という時間――少なくともそうしが学校に行ったのだから彼も授業があるはずだ――に見かけると思っていなかった一騎が内心で訝りつつも「こんにちは」と声をかけると、彼は笑顔をうかべて「こんにちは」と返してきた。そして一騎が何かを言うよりも前に「忘れ物を取りに帰っただけで、サボりじゃありませんよ。先生にも許可を取っていますから」と笑みを深め、それでは、と、一騎の横をするりと抜けて階段を降りていった。

「笑顔だったけど、こっちには何も言わせないって感じだったな……」
「それで、どうしてねこなんだ?」

 薬缶のなかでふつふつと水が沸騰したのを確認して、ドリップ用のポットに入れ替える。挽きおわって粉になった珈琲を総士がフィルターにセットして、一騎はそのうえから、蒸らしつつ、ゆっくりと湯をそそぐ。総士はひとりでも珈琲を淹れるけれど、一騎がいるときは、一騎の抽出したものがいいと言って譲らない。
 一騎の手の動きを隣で見つめていた総士が、すこし身を寄せてきた。空いている手で頬をなでると、あまえるように顔をすり寄せるのが、ねこみたいだ。ここにもねこがいたな、と思いながら、一騎はポットを置いて、引き寄せた総士のくちびるに軽くキスをする。仕事が進まなくて煮詰まって疲れているときの総士はいつもより一騎のそばにいたがるから、ぞんぶんに甘やかすのが一騎の役目だ。けれど、家ではキスまで、と決めているから、名残惜しく思いながらくちびるを撫でて離れる。
 できたての珈琲をふたつのカップにそそぎ、ひとつを総士に手渡して、ふたりで居間の座布団に腰を落ち着けた。

「……身のこなしとか、相手を警戒してるさまとか、ねこっぽいなって思ったんだよな……」
「ふむ……」

 総士は珈琲のかおりを嗅いで、ふっと目元をゆるめて口をつけてから、満足げに息を吐いた。

「……ねこ、か」
「なんだ?」
「いや、そういえばお前は、ここで暮らすようになってから、やたらとねこにご執心だな、と思ったんだ」

 くすりと笑う総士に、そうだっけ、と、一騎は思い返す。
 かつてふたりが暮らしていた島にもねこはいたはずだ。けれど、あまり目に留めることはなかったかもしれない。ああ――いや、そうしを引き取って暮らしはじめてから、それまで殊更に目を向けることのなかった島の動植物に気づくようになったのだ。そうしがちいさな草花や虫やどうぶつに興味津々で手を伸ばすものだから――。
 そうしが小学校に上がるのにあわせて、このまちへ引っ越してきてからもそうだ。ここには地域で見守り、世話をしているねこがとても多い。餌をやる家は決まっていたのだけれど、一騎たちの家の庭は日当たりが良くて居心地がいいのか、もともと近所のねこが集まる場所だったらしい。集まってくるねこを放ってもおけず、近所のひとたちと話して、一騎たちの家に餌やりの役目を任せてもらった。
 子を成すことはないねこたちだから、ここ十年近く、ほとんど顔見知りのねこばかりが庭にはやってくる。触れれば懐いてくるけれど、それでもかれらは野生のいきものだから、家に上げることはないし、かれらも、ここに住みつくことはない。ただ、餌を食べてごろごろとひなたに目を細めるかれらが、飢えや寒さにふるえることがないようにしてやりたい。

「そういうのって、善意の押しつけっていうか……エゴだよな……やっぱり……」

 ねこのようだと思った彼に――決してそうしの誘いに乗ることのない隣の少年に、似たような感情を抱いてしまったことを総士に見透かされてしまった。一騎がうなだれると、総士はちいさく笑った。

「それも相手が決めることだろう。すくなくとも、庭にくるねこはお前のことが好きなようだしな」

 とた、と、ちいさな音がして、見れば障子戸を開け放した向こう、見慣れた黒いねこと、いつも一緒にいるミルクティー色のねこが塀のうえから庭に降り立って、木漏れ日の揺れる庭石の上でごろんと転がった。餌をやる時間ではないから、きっとひなたぼっこをしに来たのだろう。
 心地よさそうにちいさなおなかを上下させながらまどろむねこを見ていると、そういう場所がずっとほしかったのだと、そう、思う。総士とともに生きると決めたときも、そうしを引き取ったときも、今も。一騎のつくりだすなにかが、大事なひとにとって、あたたかくて、おだやかにまどろむことのできる、そんなものになればいいと。

「……なぁ、総士は、しあわせか?」

 弱気になっていることは、きっと、とっくにばれているから、わかっていて訊(たず)ねてみる。総士は仕方ないなというように苦笑して、それこそねこのように、一騎の肩に頬を寄せた。

「お前以外のだれが、僕を甘やかせられるんだ?」

 うん、と、一騎はちいさくうなずいて、もういちど、総士のうすいくちびるに触れた。