あかねいろのくちづけ
それはたぶん、キス、と呼ばれるものだった。
日が暮れる前の、茜色のひかりがあたりいっぱいに広がっていた。
初めて、上がってもいいと言われたマリスの家で、お茶を出してもらって、いろんな話をして、すこし彼が席をはずしたあいだに、そうしはうたた寝をしてしまった。ふたりで座っていたのはちいさな縁側で、柱にもたれかかってねむるのはとても心地が良かった。からん、と、麦茶のなかで氷がたてる音もどこか遠く、このまま本格的に寝入ってしまいそうだと夢うつつに思ったとき、ぎし、と、古い縁側の板の鳴る音がした。
マリスだろう、と、そう思ったけれど、瞼が重くて、上がらない。もうすこしだけ――と、思った、そのとき。いつも冷たくてきもちのいい指先が、そうしの頬に触れた。夏の火照る頬を冷やしてくれる、そうしが気に入っているその体温は、ゆっくりかたちを確かめるように、そうしの頬をなぞる。そうして、ふ、と、吐息が、すぐ近くで聞こえた。え、と、思う間もなく、くちびるにぬくもりが重なっていた。かさついて、うすい、そうしと同じ、くちびる。
驚くでもなく、ぼんやりとひとみを開けたそうしに、驚いた顔をしたのはくちびるの主――マリスのほうだった。
「マリス……?」
なに、いまの、と、そう尋ねるよりも先に、マリスは「もう、帰った方がいいよ」と言った。
マリスの笑顔には、ふたつの種類がある。ほんとうに楽しくておかしくて笑っているときの笑顔と、ひとから距離を置くための笑顔だ。今のマリスは、後者の表情を浮かべている。
言う通りにしてはだめだ、と思った。そうしたら、マリスはぜんぶ、うやむやにしてしまう。
「……いやだ。今のがなにか、教えてくれるまで、帰らない」
そうしの言葉に、マリスは眉間に皺を寄せる。怒っているのではない。困っているのだ、きっと。
鳶色のひとみをじっと見つめると、マリスは目を逸らし、「したく、なったからだよ」と言った。したくなった――今の、くちびるを重ねる行為を、そうしに。
指先で、さきほどマリスに触れられたくちびるをなぞってみる。何の変哲もない、薄いくちびるだ。これにどうして急に触れたくなるのだろう。そもそも、この行為の意味とはなんなのだろう。
むつかしく考えるのは苦手だ。マリスはしたかったからした。そして自分は――。
「……よく、わからないけど、いやじゃないぞ」
「……はぁ?」
「な、なんだよ。お前がやったんだろ。どうして僕がそんな顔されなくちゃいけないんだよ」
素直な感想を言っただけなのに、マリスはなんとも言えない顔をしている。
いやじゃなかったのは、ほんとうだ。むしろ――うれしかった。いつもマリスはそばにいるけれど、自分とはちがう場所を見ているような気がしてならなかった。どれだけ誘っても家に食事には来てくれないし、一緒に出掛けることもほとんどない。ひとりで暮らすマリスがすこしでも自分を頼ってくれたらいいのにと、いつも思っていた。近づきたい、もっと、ちゃんと、マリスがほんとうに笑顔になる瞬間を見てみたい。
だから、薄い皮膚がふれあった瞬間、ぐんと距離が近づいた気がして、そうしはうれしかった。
マリスはふと息を吐いて、未だに座ったままのそうしの横に腰を下ろした。そうしの腕を、つめたい手がつかんで、引き寄せる。顔が近づく。
「……いやじゃないなら、またしても、いいのか」
「いいよ。……その、マリスが近くにいるの、うれしいし」
さきほどと同じように素直に伝えているだけなのに、なぜか頬が熱くなった。どうしてだろうと思う間もなく、ふたたびくちびるが触れあう。間近にある鳶色のひとみがそうしを射抜いてくるようで見ていられず、そっと瞼を伏せる。ちゅ、ちゅ、と、何度か触れられて、呼吸ができないのが苦しい。「そうし、鼻で息して」とマリスがちいさく笑って言って、そうか、なるほどと思うけれど、どうもうまくいかない。
ようやくくちびるが離れたときには、酸欠になりかけていた。ぼんやりしたそうしのからだを、マリスが抱き寄せる。肩に顔を押し付けると、とん、とん、と、呼吸をうながすように背中をたたく手がやさしい。マリスがこんなふうに他者に、そうしに触れるなんて、めずらしい。うれしい。
呼吸が落ち着いて、そのまましばらくマリスと言葉少なに身を寄せ合ったあと、ふわふわとした心地のまま、そうしは家に帰った。
一騎のつくってくれた夕飯を食べて、お風呂に入って、どこかまだぼんやりしながら自室に戻ったそうしは、どうしても今日の行為が気になってしまって、ベッドに腰かけて、スマホでキスについて検索してみた。
キスは、親愛や愛情をしめす行為らしい。そういえば教室のなかでときどき、キスをしたとかしていないとか、そういう話をしている同級生がいる。その話題はたいてい恋愛に関係していた。
恋愛。
今日のマリスのあれは、それと同じもの、なんだろうか。誰かに恋をするというきもちを、そうしは知らない。だけれども、マリスと一緒にいるのは心地が良いし、もっと知りたい、触れたい、一緒にいたいと思う。キスだってうれしかったし、きもちがよかった。今もまだこころが、ふわふわしてしまうのは、たぶん、浮かれているのだ。――でも、だからこそ、すこし、こわい。
もしもマリスがほんとうに「したくなったから」しただけで、そうしだけが特別な相手ではなくて、誰でもいいのだとしたら。そうしのきもちとマリスのきもちに、すれちがいがあると、したら。
くちびるを無意識に撫でて、やわらかな感触を思い出す。
――いっしょがいい。僕といっしょのきもちで、それで、またあんなふうに――。
ぼうっとそんなふうに考えていたそうしは、コンコン、と、背後の扉がノックされる音にびくりと肩を跳ね上げた。
「そうし、入ってもいいか?」
聞こえたのは総士の声だ。どうぞと答えると、風呂から上がったばかりらしい総士が、肩にタオルをかけ、まだ濡れている髪をそのままに入ってきた。
「総士、髪ちゃんと拭かないと、また一騎に怒られるよ」
「お前もひとのことは言えないだろう」
ほら、と、総士は隣に座り、濡れているそうしの髪の毛を、もう一枚持ってきていたらしいタオルで包んで拭き始めた。あまいせっけんの匂いがして、ほわ、と頬がゆるむ。
一騎も総士もちいさいころからずっとそうしの傍にいた。産んでくれた親ではないけれど、ふたりはそうしにとって大切な家族だ。一緒にいると心地が良いし、あったかい。
――でも、それは、マリスとともにいるときに感じるものとは、すこしちがう。
ぼんやりしているそうしに気づいたのか、毛先まできれいに水気を拭き取りながら、総士が「何かあったのか?」と訊いてきた。
「……なにか?」
「今日のお前は、帰って来てからずっと上の空だったからな。ご飯もおかわりしなかっただろう、一騎が心配していたぞ」
いつもとちがう、ということは、ふたりには見透かされていたらしい。態度に表れていたのが恥ずかしくて、頬が熱くなる。
「お前が、言いたくないならいいんだ。なにもかもを話す必要などない。お前にはお前の世界がある。危なっかしいことをするのでなければ、親だからといって、僕らがお前に口を出すことはないさ。だが、なにか相談したいことがあるのなら、いつでも聞くから、言ってくれ」
「……うん」
水気の拭き取られた髪の毛を、総士の長い指が梳く。そのきもちよさに目を細めながら、「あの……」と、そうしは口を開いた。
「あのさ……、総士は、一騎のこと、すきだから、結婚したんでしょ?」
唐突な問いに、総士は目をまたたかせる。今まで面とむかって、こういうことを、訊ねたことがなかったせいもあるだろう。総士はこほん、とひとつ咳払いをしたあと、いつもの生真面目なまなざしでそうしを見返した。
「そうだな。お互いにすきだと思ったから、一緒に生きる約束をした。結婚をしなければならない、ということはなく、ひとつのあかしとして、僕らはそれを選んだというだけだが」
「じゃあ、キスもする?」
今度こそ、総士は面食らった顔をした。しまった、ストレートに訊きすぎただろうかと思ったが、時すでに遅しだ。総士は何かを言いたげに口を開けたり閉じたりしたあと、息を吐いて、ふと、やさしい顔になった。
「……したいと、そう思ったのか?」
「……思ったっていうか……その……」
したんだけど、とは、言葉にはならなかった。あまりにも恥ずかしかったのだ。
総士は、そうか、と、それだけ言って、そうしの頭を撫でる。
「お前がしあわせそうな顔をしていたから、悪いことではないと、思っていたんだ」
「……わるいことじゃ、ないよ」
「そうか」
「うん……」
わるいことじゃないけれど、ちょっとこわい。はじめてのことだから。そう素直には言えなくて、ただ、頭を撫でるやさしいてのひらに、安心した。
もう一度してほしい、と、そうマリスに告げたのは翌日の帰り道だった。
朝は、いつもと変りなく、何事もなかったかのようにふたりで登校して、マリスは、学校でもいつも通りだった。けれどそうしのほうは、意識せずにはいられなくて、昨日の記憶をよみがえらせては、マリスを見てしまっていた気がする。
もう一度と、そう言ったそうしに、マリスはちょっと困ったような顔をした。ふたりの家に帰るための、細い階段は、人通りが少ない。あたりには人の気配もなく、塀の上で、よくそうしの家の庭にくる猫たちがみゃあと鳴くだけだ。してくれるなら、今がいい。そう思って告げた。
「……そうし、あのさ、」
「……やっぱり、昨日のは、したかったからしただけで、僕じゃなくても……」
「そういうことじゃ、なくて」
めずらしく慌てたように、マリスがそうしの腕をつかむ。マリスは気まずそうに視線を逸らして、「そうしじゃなかったら、しないよ」と言った。
「ただ……、こういうところは、誰がいるか、わからないから……」
「あ……」
いくら人気がないとはいっても、確かに、どこで誰が見ているかわからない。冷静に考えると、とたんに恥ずかしくなって、そうしはぶわっと顔を赤く染めた。それを見ていたマリスが、ぐっと、そうしの腕を引く。
「……うち、おいでよ」
足早に、階段を上がっていく、そのマリスの黒髪からのぞく耳が、すこしだけ赤い。そうしの頬はますます赤くなって熱をもった。
――きっと、これは、きもちがすれちがっていない、あかしだ。
駆け上がった階段の先、マリスが玄関の戸を開けて、ふたりですべりこむ。マリス、と、そう名を呼ぶ前に、マリスのくちびるがそうしのそれを塞いだ。