夏の桃は茹だるように甘かった
夏風邪はひくと長引くから気を付けるんだぞ、などと、そうしに口酸っぱく言っていたくせに、どうして自分がひくんだ、と、そうしはぐぐっと眉を寄せながら、半開きのドアから部屋のなかをのぞきこんでいた。そのなかでは部屋の主――総士が、ベッドに横たわっている。ぴぴっという小さな音とともに、ベッド脇に座っていた一騎が、総士の胸元に手を入れて体温計を取り出し、ふぅ、とため息のようなものを零した。
「三十八度五分」
「……そんなに、ある、か……?」
「それだけしんどそうなのに気づいてないほうがおかしいぞ、お前」
総士の背中を支えながら起こし、入れたばかりの水を飲ませながら、一騎は呆れたようにつぶやいた。
「病院だな。俺が連れて行くよ。店は休めばいいし」
「それくらい……ひとりで……」
「心配だ、って、言っているんだ、総士」
一騎にぴしゃりと言い返されて、総士はうぐっと言葉を詰まらせた。こういう時のふたりは、一騎のほうが強いと、そうしはよく知っている。ふだんはとても物腰がやわらかくって、ふわふわしているけれど、一騎は家族のこととなると厳しい顔もする。自分を後回しにしたり、体調が悪いことで迷惑をかけている、という言動をしたりすると、絶対に見逃してくれないのだ。――その一騎自身が自分を蔑ろにすることがあれば、もちろん総士とそうしが黙っていないのだけれども。
「ねぇ……、総士、大丈夫……?」
うつるから入って来ちゃだめだと言われて、半開きのドアからのぞきこむしかないそうしは、おずおずと声を出した。総士が風邪をひくのはとてもめずらしい。締め切りが近くなると不規則な生活をしがちだが、そんなときでも、本人が意識して一日に何回かは軽い運動をしているからなのか、はたまた、一騎がバランスの取れた食事をせっせと運ぶからなのか――そうしが幼いころ、総士が一度だけ倒れたことがあってから二人で話し合って改善されたらしい――目の下に隈をつくっていても、からだを壊すことなどほぼない。だから、総士の弱った姿をそうしが見るのはとても久しぶりのことだった。
総士は一見すると線が細くて体力がなさそうだが、実際はそうではない。総士いわく「体力お化け」の一騎と比較してしまえば劣るけれども、家までの坂道を上り下りしてもそこまで息を切らせることもないし、幼いころは一騎と同様にひょいひょいとそうしを抱えあげてくれていた。
それに、常に家にいる総士は、一騎とそうしのいない間にてきぱきと家事をこなし、仕事もこなし、そうしの宿題も見てくれる。決して暇なはずはないのに、だ。物事をよく知っているし、常に冷静で、賢くて、そうしのことを厳しくもやさしくも守ってくれる――要するに、そうしにとって、頼りになるひと、なのだ。もちろん、それは一騎も同じだ。自分にとって、親、というのは、きっとそういうものなんだ、と、そうしは思っている。
だから、そういうひとが、いつも自分を守ってくれる強いひとが寝込んでいるというのは、そうしをひどく動揺させた。
「大丈夫だ。これくらい、すぐ、治る」
そうしの言葉に、総士はかすかに笑んで言うけれど、声に覇気はない。一騎はそんな総士に寝るように促して、そうしのほうへやって来た。
「朝ごはんにしよう。そろそろ準備しないと学校に遅れるぞ。今日は補習の日だろ」
学校は夏休みに入っているが、中学三年生のそうしには、受験に向けた補習が数日組まれている。今日はちょうどその登校日だ。家にいたいけれど、そういうわけにもいかない。
「……総士は?」
「大丈夫。あとでお粥食べさせて、病院に行くよ」
不安そうに見上げてしまっていたのだろう。一騎は、もう一度、だいじょうぶ、と、そう言って、ちいさなこどもにするように、そうしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
*
そうしは、素直だ。
馬鹿正直、ともいう。思っていることがすぐ顔に出るし、直情型だから、怒ったり泣いたりすることも多い。隠し事はまずできないタイプだ。裏表がないともいう。だからなのか、彼のまわりには彼を好ましく思う人間がよく集まる。しかし、他方、優しくて、自分より他人を慮る部分があるからなのか、ネガティブな感情を抱いているとき、彼は自分から人を遠ざけがちだった。おそらく本人は無意識なのだろう、と、マリスは思いながら、昼休みの教室で、ぼんやりと窓の外を眺めているそうしを見やる。
――今日は朝から元気がない。
ふだんならマリスが家を出る前に玄関前で待機しているそうしが、今日はいなかった。おかしいなと思ってしばらく待っていると、とぼとぼとした足取りで彼の家の門から出て来た。「おはよう」と声をかけると、はっとしたように、「おはよう!」と笑顔を浮かべたけれど、どうにも無理やり元気を出しているようにしか見えなかった。
学校へ来るあいだも、言葉数は少なかった。いつもそうしのほうがよく喋るし、話題も出してくるものだから、マリスもどう話を振っていいものかわからず、なんとなく空気の重い通学時間になってしまった。
どうしたのか、と、訊くべきだろうか。こういうとき、そうしは、「なんでもないよ」と言うことが多い。顔には素直に不安や動揺が出ていても、その理由を喋ろうとしない。心配をかけまいとする、生来の性分なのだろう。
そうしは、やけに子供っぽい言動をするかと思えば、意外に人の機微に敏く、気遣い屋だ。そして、隠しごとができない代わりに、他者の心も見透かすのがうまい。そういうところに自分はどうにも抗うことができなかったのだ。つい、手を伸ばしたくなってしまう、触れてみてしまいたくなる。自分の言動で彼がどんな顔を見せてくれるのかが楽しみになってしまう。ころころ変わる表情や、真っ直ぐにこころの奥まで届くような言葉に、振り回されて、苛立つことだってあるのに、面白い、かわいい、というおもいのほうが、勝ってしまった。
――前の僕だったら放っておいただろうに。
そう思いながら、マリスは席を立った。そうしの横に立てば、のろのろと視線が動いて、なんだと言いたげにマリスを見る。
「どうか、した?」
「どう、って……?」
きょとんと目をまたたかせるそうしに、「朝からずっと、心ここに在らずだろう」と言えば、すこし瞳が揺れた。
「言いたくないことなら言わなくてもいいけど、言いたいことがあるなら聞くよ」
「……言いたいこと、って……いうか……」
もごもごと口を動かしたそうしは、事情を話すことにしたらしい。「あのさ」と、ようすをうかがうようにマリスを見上げてくる。
「総士が、夏風邪ひいて……、朝出てくるとき、熱も高くて、辛そうだったんだ。一騎が病院に連れて行くから大丈夫だって言ってたし、僕だって、風邪くらいでそんなに心配することじゃないって……分かってるけど……」
「心配なんだ?」
こくり、と、そうしは頷いた。
そうしは、家族がすきだ。それはマリスもよく知っている。事あるごとに「うちに来いよ」という誘いを断り続けているが、一騎と総士という彼の親とは、面識がないわけではない。隣の家に住んでいるのだから、顔を合わせることはよくあるし、そうしが頻繁にマリスの家にやってくるようになったから、手作りの菓子や食事のおすそ分けをもらうことも増えた。まだ数回だが、そうしにどうしてもと言われて、一騎が勤めている喫茶店に顔を出したこともある。「内緒だぞ」と言って出されたのはほろ苦いガトーショコラと珈琲だった。甘いものはあまり食べない、紅茶や日本茶よりも珈琲を飲む、というマリスの好みをそうしが家族に話しているということがうかがい知れた。
たいてい、中学生くらいになると、家族に何でもかんでも自分やともだちのことを話さなくなるものだろうとマリスは思っていたので、そうしと彼らの関係性は意外というか、不思議だった。マリスの養い親はまた他とタイプが違うだろうから比較にはならないが、そうしのように、家族、親が大好きだと素直に言う同級生はほぼいないから、マリスの感覚がずれているわけではないだろう。たとえ良い関係性を築いていたとしても、この年頃になると、家族や親のことを好き、と口にするのはどことなく恥ずかしい、と感じるようになるのだ。
だがそうしは、臆面もなく、好きだ、と言う。三人で、あるいはどちらか一方と二人で、商店街へ買い物に出ている姿や、夕暮れどきに、家の周りで散歩をしたり、ねこと戯れたりしているのを見かけることもある。近所のひとたちに、仲が良いねぇと言われると、へへ、と、嬉しそうに笑っている。
そんなそうしだから、家族の不調に落ち込むのも、わかる。
そうしは胸のうちにわだかまっていたのだろう不安を吐露するように、視線を落としてぽつぽつと言葉を続けた。
「僕が不安そうにしてたから、大丈夫だって一騎は言ってたけど、本当は一騎もすごく心配してるんだ。僕はちいさかったからほとんど覚えてないけど、ずっと前、まだ島に住んでたころ、総士が倒れたことがあって、その時、一騎はたまたま店の仕入れで島外に出てたんだって。史彦おじいちゃんが見つけて、島の外の病院に運ばれたんだけど、一騎が今まで見たことないくらい取り乱して大変だった、って……。僕もなんとなく、病室の総士のところにお見舞いに行ったようなぼんやりした記憶があって……、だからなのか、わからないけど、寝込んでいる総士を見ると、なんとなく、このへんが、ざわざわする」
ぎゅう、と、そうしはシャツの胸元を握りしめた。
ちいさいころの記憶というのは、おぼろげでありながら、根深いものだ。マリスにも覚えがある。養い親ではなく、自分を産んだ両親がいたころの記憶。そして喪ったときの記憶。そういうものは、自己を形成していく過程で、大きく影響してくる。
そうしは今の親にだいじに育てられてきたことがよくわかるが、そのぶん、こういったとき、より不安が増すのかもしれない。失うかもしれない、という恐れは、大事であればあるほど、大きい。
ただの風邪でしょ、心配することないよ、なんて――そうしのことを知らない自分なら言っていたかもしれない。しかしそうしのことを知っているマリスは、ふと苦笑して、そうしのポニーテールを梳くようにして手に取った。いつもは総士に結ってもらっているそれは、今日も見た目はきれいに結われている。
「――今日、自分でやった?」
「……うん」
「うまくできてるよ」
「……できても、やってもらいたいって思うのは、おかしいのか?」
そんなこと、訊いたところで、どんな答えが返って来ても我を通すくせに。そう思いながらマリスは「おかしいなんて思わないよ」とかすかに笑った。そうしが総士に毎朝髪を結ってもらうのがすきなことを、マリスはよく知っている。それがきっと、彼らにとってだいじな時間であることも。
そうしの髪をもてあそびながら、マリスは「何がすきなの?」と訊ねる。
「え?」
「風邪ひいたときって、食欲はないかもしれないけど、すきなものなら食べられることもあるだろう。まぁ、あの人がなんでも作るんだろうけど……放課後何か見つけに行くなら付き合うよ」
だから元気出しなよ、と、そう言ったマリスに、そうしはふにゃふにゃと頬をゆるめて「お前って、実はやさしいよな」と、今日初めて、すなおに笑った。
――「実は」は、余計だったけれども。
*
からだが、すこし軽くなった。
そう感じて、総士はゆっくりと重たい瞼を上げた。目に映るのは見慣れた部屋の天井だ。レースカーテンを透かして入りこんでくる太陽のひかりはわずかに色づいている。午後のひかりだ。どれくらい眠っていたのだろう。
昨夜はあまり眠れなくて、からだが重くて、おかしいと思ったら朝一番、出くわした一騎に「お前、熱あるだろ」と言われた。久しぶりの高熱にふらふらするからだを一騎が支えながら商店街の中ほどにある病院へ連れて行ってくれて、点滴を打たれた。薬をもらって帰ってくるころには幾分か楽になってきていて、一騎の作ってくれたお粥を食べてから、眠りに就いた。
もうそろそろ、そうしの帰ってくる時間になるのではないだろうか。夏の日は長く、傾き始めてからも夜になるまで猶予があるから、窓からさしこむひかりだけでは時間が把握できない。
――……喉が、かわいた。
はぁ、とおおきく息を吐いて、一騎の置いていってくれた水差しがあるはずだと思い出し、からだを起こそうとして、からだの右側に何かが触れていることに気づく。緩慢な動きで半身を起こしてみると、一騎が椅子に座ったままベッドへうつ伏せて、総士に身を寄せるようにして眠っていた。
「……うつるから、出て行けと、言ったのに」
ぽつりと零しつつ、言葉とは裏腹に、口元はゆるんでいた。すうすうと眠る顔は、幼いころから変わらない。
朝、そうしを送り出すまでは平気な顔をしていたけれど、ふたりきりになるやいなや、一騎は最近ではほとんど見ることのなくなった不安そうな顔をしていた。そうしには見せられないと思って耐えていたのだろう。
総士は昔、一度だけ、無理をしてからだを壊し、倒れたことがある。そのときそばに自分がいなかったことを、一騎はずっと悔やんでいて、一種のトラウマになっているようだった。だから総士が体調を崩すと、ひどく動揺するのだ。
あのときも大事には至らなかったが、総士が知らないところでいなくなるかと思ったらこわくて耐えられない、と、病室でこどものように泣かれたことを、今でも鮮明に憶えている。昔の一騎はよく怒ってよく泣くこどもだったけれど、成長してからはほとんど涙を見せることがなくなっていただけに、総士は申し訳なさと愛しさでいっぱいになった。あれからずいぶん反省し、不規則な生活になりがちでも、体調管理には気を配っている。
だが、最近は暑い日々が続いているからと、空調を効かせたまま薄着で寝ていたのが良くなかったのだろう。油断をした。そうしにも、心配をかけてしまった。
――あいつも、一騎と同じように、こういったことには敏感だからな……。
不安な表情でおろおろとドアの隙間からようすをうかがっていたそうしを思い出す。総士が倒れたときは幼かったから、当時の記憶はあいまいになっているだろうけれど、根がやさしくて人の機微に敏いそうしは、人の不安にも同調しやすい。
それに、そうしは、彼を引き取ると決める前から、一騎と総士にべったりだった。今でもそれは変わらない。だから、ふたりが体調を崩したり、どこか遠くへ行ったりすることをとてもこわがるのだ。
風邪が治ったらめいっぱい相手をしてやろう、と、そう思いながら無意識に一騎の頭を撫でていたらしい。「んん……」と一騎がかすかに声をもらして、ぼんやりと目を開けた。
「……そぉ、し」
「おはよう、一騎」
「……ねつ、は」
「測ってはいないが、下がっているだろうな。随分楽になった」
寝癖で跳ねている一騎の前髪を直してやりながら言えば、ほうっと息を吐いて、一騎が総士のその手に頬をすりよせる。もういい大人になったというのに、一騎のこういうところは、いつまでたっても幼げで、たまに見せられると、胸がぎゅう、と詰まる。
一騎はひとしきり総士の手に懐いたあと、ふと、ベッド脇の時計を見やって、「うわ」と声を出した。案の定、眠っているあいだにすっかり時間は経っていたらしい。
「もう五時か……。夕飯の支度しないとな。何か、食べたいものとか、あるか?」
「とりあえず、水が飲みたい」
忘れていたが、喉が渇いて水を飲もうと起き上がったのだった。一騎はちいさく笑って水差しからコップへ水をそそぎ、「あ、飲ませてやろうか?」などと言ってくる。これが冗談や揶揄いではなく本気なのが、一騎の困ったところだ。「自分で飲める」と言って手を差し出すと、あっけなくコップは総士のもとへやってきた。――こんなときなのだし、ちょっとだけ甘えてやればよかった、と、思ったが、いまさら言っても遅いだろう。少しだけ残念に思いながら、こくこくと水を飲み込む。
「食欲は、あるか? あるなら、お粥以外のものでも作るけど……」
「そうだな……」
何でも食べられるほど元気か、と言われると、微妙だった。楽にはなったが、胃はまだやさしいもの以外を受け入れられそうにはなかったし、喉もどことなく閉塞感が残っている。またお粥でも、と、そう言おうとしたところで、ピコン、と、ちいさな電子音が鳴った。
「あ、そうしだ」
一騎はベッドの上に投げ出していたらしいスマートフォンを手に取って、メッセージアプリを開いたらしかった。そうしには緊急連絡用に中学生向けのそれを持たせていて、学校では使わないというルールだが、放課後にどこかへ寄るとか、遅くなるとか、そういう情報伝達用には使っていいということにしていた。一騎は画面を見て、ふにゃりと頬をゆるませる。
「ふふ……、夕飯は、そうしが帰って来てから考えようかな」
「……? なんだ?」
「ないしょ」
一騎がかわいらしく人差し指を口元へ添える。時にこちらが動揺するくらいに男くさい顔をするくせに、どうしてこういった仕草まで似合うのだろうかと思いながら、総士は困ったように眉をハの字に下げた。
*
『総士の食べられそうなものを買って帰ります』
『何か一騎の思うものがあったら教えて』
放課後、学校から出たところで、そうしはスマートフォンでぽちぽちとメッセージを送った。相手は一騎だ。しばらくして既読がついて、『総士には内緒にしておくから、お前の思うものを買ってきてくれ。胃に優しいものなら食べられると思う』『熱も下がったし、朝より元気になったから、心配しなくていい』と返信がくる。最後に添えられた、黒猫が笑顔で魚をくわえているスタンプは総士が気に入っているからと一騎もそうしもよく使うものだった。
よかった、調子よくなったんだ、とそうしはほっとする。
「……わかりやすいなぁ」
「え? なにがだ?」
隣に立っていたマリスの言葉に首を傾げると、「なんでもないよ」と言って肩を竦められる。
「で、何を買って帰るか決めたの?」
「うん。桃がいいかなって。もう終わりかけだけど一応旬だし、熱が出たときに食べる果物って美味しいだろ。今日は生で食べて、残りは一騎にコンポートにしてもらって……あれで作るゼリーとかタルトとか、総士、すごく好きなんだ」
いや、総士だけではなくそうしも大好きなのだけれど。
総士は偏食をしない。おそらく、多少苦手なものでも黙って食べているのだと思う。そのかわり、ほんとうにお気に入りのものが出ると、表情はあまり変わらないのに、ふわふわ周りに花がとんでいるような雰囲気がただよい、上機嫌になるのだ。
学校から坂道をくだって線路を越えて、商店街の入り口にほど近い八百屋まで出向くと、桃がずらっと並んでいる。よく一騎や総士と一緒に買い出しに来るので、中から出てきた店番のおばあさんに、「今日は一緒じゃないんだね」と声をかけられた。
「うん。総士が風邪ひいたんだ」
「それで、桃買って帰ってあげるの? それならこのへんが食べごろだよ」
「ありがとう!」
そうしが店の中で支払いをして、おばあさんが桃を包んでくれるあいだ、マリスはどことなくぼんやり商店街のほうへ視線を向けて、店の外で突っ立っている。買い物に付き合ってはくれるけれど、マリスはいつもそうだ。特に、そうしと顔見知りでよく話しかけてくるような、こぢんまりとした個人商店にはなんとなく入りにくそうにしている。この街に越してきて数ヶ月経つけれど、マリスがいつもどこで買い出しをしているのかそうしは知らない。自炊をしているようだし、このあたりに大きなスーパーはないから、どこかで買ってはいるはずなのだけれど――。
「そうしくん」
桃を包んでくれたおばあさんが袋を手渡してくれながら、ちょい、と、店の前で立っているマリスのほうを見やった。
「あの子、おともだち?」
「え、うん。そうだよ」
「そうなんだね。最近ときどき来るんだけど、いつもひとりだから……おともだちがいてよかった。――ああ、こういうお節介が、きっときらいな子なんだろうけどねぇ」
だからあの子には言わないでね、と、笑いながら言うおばあさんに、そうしは、「きっと、すきじゃないけど、きらいでもないよ」とちいさく笑い返す。
マリスはお節介がすきじゃない。けれど、本当にいやなら、とっくにそうしは突き放されていたはずだ。だがマリスはそうしなかった。それどころか最近は――ちょっと、ともだち、という枠よりはみだしたような、触れ合いをするようになった。
すきじゃないけど、きらいでもない。慣れていない。どうしていいかわからない。確かに他者に対してある程度の線引きをすることが、彼にとっての心地よい世界なのだと思う。それを無闇に壊す気はない。だけれど、その線に触れない程度に彼を見て、彼を知る、そういうちょうどいい塩梅をわかっているひとたちは、この街のなかにもいるのだ。――彼がまだ、知らないだけで。
「よかったら、一緒に食べながら帰って」
おばあさんが出してくれたのは、剥いてちいさく切ってある桃の入ったタッパーだった。つまようじが二本刺さっている。「熟しすぎたもので悪いけどね」と言うおばあさんに、「ありがとう」とお礼を言って店を出た。
「終わった?」
「うん。ほら、桃もらったんだ。一緒に食べよう」
タッパーをマリスの前に掲げると、目を瞬かせて、ちょっとだけ店のなかへ向かって頭を下げた。
坂道をのぼりながら、つまようじに刺した桃をひとつ、マリスのほうへ渡す。好き嫌いいはあまりなかったはずだけれど、一応確認すると、「きらいじゃないよ」という答えが返ってきた。そういえばマリスは、「きらいじゃない」は言うけれど、「すきだよ」とはあまり言わない。
そうしも桃をひとつ口のなかへ放り込んだ。熟しすぎた、と言っていたけれど、とても甘くて美味しい。
「マリスはさ、すき、って、言わないのか」
「なんのこと?」
「いや、だって……きらいじゃない、って、よく言うだろ。きらいじゃない、は、すき、と同じじゃないだろ。お前のすきなもの、って、なんなんだ?」
一騎も総士も、「すき」だと言う。美味しいご飯がすき、故郷の美しい島がすき、三人でいる時間がすき――そうしがすき、だと、当たり前のように口にする。だから、どうしてマリスは「すき」と言わないんだろうか、何が「すき」なんだろうか、と思ったのだ。
夏の日は長いが、すでに大暑も過ぎるころ、六時近くなれば夕陽も海に浮かぶ島々の向こうへ姿を隠し、紺色が空に滲み始める。もう少しすれば、星々が空に輝くだろう。答えのないマリスのほうは見ず、空をぼんやり見上げて、ぱくり、と、もうひとつ桃を口にふくんだとき、それまで黙っていたマリスが、不意に、そうしの手をつかんだ。「え」と声を出す間もなく、くずれた桃の果汁がじゅわりと広がったばかりのくちびるを、塞がれている。やわい感触は、自分のくちびるを塞ぐものが、マリスのそれだと気づかせて、そうしは耳までかぁっと真っ赤になった。ぺろりと最後にくちびるを舌がたどって離れていって、ぼうぜんとする。
「――すきだよ。そうしと、こうするのは」
「……っ」
そういう、ことじゃない、と叫びそうになって、いや、そういうことでいいんじゃないのか、と、相反するおもいが浮かんでは消える。マリスはちいさく笑って、「甘いな」とつぶやいた。お互い、桃を食べていたのだから当たり前だ。顔を赤くしたままぱくぱくと口を開けては閉じるそうしの手からタッパーを奪って、マリスはつまようじに残りひとつの桃を突き刺すと、ほら、と、開いたままの口に放り込んでくる。おとなしく咀嚼していると、タッパーの蓋を閉めてそうしの手に戻して来たマリスが、ぽつりと言った。
「僕はそうしみたいに、あれもこれも、すきだ、って言うには、まだこの世界を信用していないんだ」
どういうことだ、と、聞きたかったけれど、マリスはそれ以上のことを言ってくれそうにはない。そうしはごくんと桃を飲み込んでから、「それでも、僕は、お前のこと、すきだぞ」と返した。
それがどういう「すき」なのか、はっきりと言葉にできるほど、そうしは自分の感情を捉えきれていない。言語化するのも得意ではない。けれど、「すき」だ。マリスが例え、同じ言葉を返してくれはしないとしても。
するとマリスは目を細めて――ああ、そうだ、一騎や総士が、互いを見るときに似ているのだ――そうしを見つめる。
「すきでいてよ、そうしは。僕のことを」
自分はすきだと言わないのに、ひとにはすきであってくれと、そう言うのは、あまりにも自分勝手だと思った。それでもマリスがすこしだけ、本当に、すこしだけ寂しそうな顔をするものだから、そうしは思わず、マリスの手を取って、ぎゅうっと握りしめた。
家に帰ると、桃は予想通り、ふたつほどはそのまま切り分けられて、もういくつかはコンポートになった。すこしだけならいいよ、と言われたので、総士のそばまで一口大に切り分けられた桃を持って行って、「あーん」と口元まで運んだら、「逆だろう、本当は……」と申し訳なさそうな、恥ずかしそうな顔をされた。けれどうれしそうに、ありがとう、おいしい、と頭を撫でてくれたから、そうしは一日の不安が全部ふきとんでしまった。心底ほっとしたそうしは、お粥を食べる総士とは別に用意された桃と生ハムのパスタを、大盛りにしてもらって食べきった。美味しいから、マリスも呼べばよかったなぁと思ったけれど、彼はきっとまだ当分、この家に上がる気はないのだろう。
マリスが一緒に買いに行ってくれた、と言うと、一騎は翌日、桃のコンポートをタルトにして、マリスのぶんをきれいに包んでくれた。
「ありがとう、ってお礼を言っておいてくれ」
一騎の言葉をそっくりそのまま伝えて、タルトの入った箱を渡すと、マリスは「これの中身、ひとつじゃないんだろ。上がって食べて行きなよ」とそうしを家に誘った。おそらく一騎はマリスがそうやって言うこともわかっていて、タルトをふたつ入れたんだろうな、と、そうしはそのとき気づいた。
「ほとんど話したことないのに、お前、一騎の考えてること、わかるんだな」
と言うと、マリスは何とも言えない顔をして、お茶を淹れてくれた。
「気遣われているのがわかるから、行きたくないんだ」
「へ?」
「……なんでもない」
マリスが濁した言葉がなんだったのか、そうしには聞こえなかったけれど、彼の淹れてくれたお茶も、一騎の作ってくれたタルトも美味しい。
美味しいなぁ、幸せだなぁと呑気にもぐもぐ食べていたら、「昨日の味、もう忘れたから」などという理由で、なんとなく機嫌の悪そうなマリスに口づけられて、またそうしは夏の暑さでも風邪の熱でもないぬるい温度に、あたふたするのだった。