捕虜というのは、ふつう、外には出られないものだと思っていた。それがどうしてか、数日を過ごした隔離室から出されて、美羽たちの暮らす家へ居候することになっていた。
 そもそも総士があの部屋にいたのは、マーク・ニヒトというあの機体を動かし、少なからず島のなかへ被害を与えたことによる懲罰という意味もあったらしい。乗せたのはそっちじゃないか、と、思ったけれど、乗った瞬間に何かに絡めとられ、自分を自分でなくするような感覚に襲われて、ただ怒りと憎しみに支配された状態で、あのまま止められなかったら、何もかもを壊していたにちがいない。そう思うとぞっとする。
 総士のかつていた島が破壊されたように、同じようにしてやろうと、望んだわけではなかったのだ。ただ許せなかった。乙姫が殺されたことも、島を失ったことも、ただ悲しくて許せなかった。今でもなお、許せない。けれど、それを、この島を破壊することで昇華できたとは思えない。

 美羽たちの暮らす家まで、総士は車で送られた。部屋のなかにため込んだ本や、使っていた日用品も一緒に持って行くには、徒歩や公共交通機関では無理だったからだ。島へ来たときには、着慣れた服一枚だけしか持っていなかったのに、と、不思議なきもちになった。
 ルヴィの元へ連れられて行ったときにも外の景色は目にしたが、森や海などがほとんどで、人の暮らしはあまり感じられなかった。けれど、車が通る街並みには人が行き交い、写真でしか見たことのない電車が走っている。店や家が並んで、おとなも、こどもも、穏やかな顔で歩いている。
 ――これを、全部、壊してしまっていたら、僕はどうしていたんだろう。
 あのときは知らなかった。この島に、自分がいた島と同じように日常があって、ひとりひとりの人間が息づいていて、それぞれに大事なひとがいることを。
 ――いや、知っていても知らなくっても、自分が壊してしまった世界を前にして、どこにいけばいいか、どうすればいいのか、総士はもっとわからなくなっていたにちがいないと、思った。

 総士に与えられた部屋は、海の見える部屋だった。
 かつて住んでいた家は平屋で、いわゆる古い日本家屋だったから、この遠見家のような、洋館と呼べるような家で暮らすのは初めてだ。けれど、海が見える、という点は変わらない。以前の部屋の窓からも、きらきらとひかりを反射させる海が、よく見えた。ここから見える海はそれとはちがうはずなのに、懐かしくて、すこしだけ、心がおちつく。ここ数週間、外の景色の見えない場所にいたからかもしれない。
 荷ほどきをして階下に降りると、美羽と千鶴が待っていた。美羽の祖母、真矢の母にあたるという千鶴からは、この島に来て何度か診察のようなものを受けて、言葉をかわしている。彼女は医師で、剣司という、大きな艦にいるときに総士の診察をしていた医師の上司になるらしい。

「荷物は、片付いた?」
「あ……、えっと……、はい。その、お世話に、なります……」

 なんとなく気恥ずかしくて、ぼそぼそと言うと、千鶴はやわらかくほほえんで、「お茶にしましょうか」と言った。ダイニングテーブルの、どこに座ればいいのかちょっと迷ってから腰かける。ここに至るまで、美羽だけがしょっちゅう訪れる隔離室のベッドのうえで生活していたから、どうにもまだ、調子が狂っている気がする。
 それに――ああ、そうだ、以前のあの島では、誰かの家にお邪魔することなんて、なかったのだ。マリスの家さえ知らないのだった、ということに気づいて総士はかすかに動揺した。そもそもマリス以外の同級生や、島のひとのことを、総士はもうほとんど思い出せなくなっている自分に気づく。あの島にいたころには、まったく疑問に思いもしなかったが、家族とマリス以外のことを総士はほとんど知らないのだ。
 ぞくり、と、背を這ったものをふり払うようにして、総士はあたりを見回した。
 片付いていて、きれいな家だ。傾きかけた日差しのさしこむ窓辺では、ソファに腰かけた真矢が紅茶を飲んでいる。彼女の定位置はそこなのだろう。かつて暮らした家とのちがいが物珍しく、ぐるっとリビングを見回した総士は、奥に設えてある棚の上に目をとめた。
 ――写真だ。
 一枚には、幼いけれど、見覚えのある顔をしている少女が写っている。真矢だ。その真矢の横にいるのもまた、記憶に深く刻まれている顔だった。こちらも、幼い。ふたりとも、こどもだ。どうして彼女、、がその写真に写っているのだろう。見たくはない現実がそこにある気がして、けれど、視線はどうやってもその隣の写真へ自然と吸い寄せられた。
 仲睦まじいようすの、男女が写っている。
 ファインダーに向けられた笑顔は、しあわせに満ちている。
 知っている。知っているけれど――知らない。
 ――ああ、そういう、ことだったのか。
 この家には、真矢と、美羽と、千鶴しかないと聞いている。美羽の両親は、かつての戦闘や、マリスも経験したというこの島への旅路の途中で亡くなったのだという。そうであれば、この家に飾ってある男女の写真が何を意味するかなど、容易に分かる。
 美羽の、両親なのだ。
 総士がかつて、母さん、父さんと、そう呼んでいたひとたちは、美羽の両親の顔をしていたのだ。美羽とマリスの先日のやり取りを思い出し、ああ、だから、と、納得する。
 マリスは、「何を連れてきたの」と憤る美羽に対して答えていた。「総士と美羽のための家族だよ」と。あれは、あの家は、家族は、そもそも総士にだけ用意されたものではなかった。だからなのかは分からない。マリスが何を思って、何を考えていたのかはわからない。けれど、姿かたちは、美羽のいなくなった両親を模倣したのだ。
 ――そういえば、僕は、母さんと父さんの名前を、知らない。
 そのことにさえ、疑問を持たなかった。母さんは母さんで、父さんは父さんだった。あとは乙姫とマリス。ほかの同級生、近所のひと、――誰ひとり名前を思い出せない。呼んでいたのか、どうかすらも。
 ぐらりと、視界が揺らぐ。耐えきれずに、総士はぎゅっと目を瞑った。

「総士?」

 どうかしたの、と、美羽が心配そうな声を出す。ゆっくり目を開ければ、不安そうな顔が目の前にあった。彼女はいつもそうだ。総士、総士、と、鬱陶しいくらいに総士に意識を、言葉を向けて、心配だ、という態度を取る。嫌なわけじゃない。けれど、どうしてかときどき、無性に、彼女のそんなところが苛立たしく感じられることがある。
 だが、今は、苛立ちより、突きつけられた事実に対する動揺のほうが勝った。

「……あれ、は」
「うん?」
「あの写真に写っているのは、きみの、両親なのか」

 あ、と、美羽が目を見開いた。そして、何とも言い難い表情で、「……うん、そうだよ」と言った。

「美羽の、パパと、ママだよ。ママはね、真矢おねえちゃんの、お姉さんだったの。パパは美羽が産まれる前に死んじゃったから、ちゃんとは会ったこと、ないけど」
「……そうか」

 言いづらそうな姿から、美羽が、総士があの島で誰を母と呼び、父と呼んでいるのかを知っているのだと察せられた。島に入って来ていたあの男、真壁一騎は、総士の生活を見ていたのだ。きっと彼が伝えたのだろう。だからマリスの連れてきた「家族」が誰か知っていて、「そんなの、ちがう」と、言ったのだ。

「……あの、靴は?」
「へ?」

 何とも言えない、居心地の悪い空気をどうにかしたくて、総士は、写真の手前にあるちいさな靴を指さした。彼女の両親に関係があるものとは、思えなかったのだ。美羽は、ちょっと表情を緩めて、何かを懐かしむような――愛しむような、そんな声で「だいじなもの」と、目を細める。

「美羽のたいせつなともだちが、のこしてくれたものだよ」

 のこす――というその言葉で、もうそのともだちも、この世界にはいないのだろうとわかった。父も母もともだちも、喪った美羽。自分と何がちがうのだろう。家族がほかにもいることだろうか。現状で、世界最高のエスペラントということだろうか。彼女は揺らがないのだろうか。総士のように、ぐらぐら、地面が揺らぐことは、ないのだろうか――。

「はい、ふたりとも、お茶よ」

 停滞した空気を和ませるように、千鶴の声がおだやかに落ちる。テーブルのうえに、ティーカップが置かれた。

「総士くん、紅茶は大丈夫かしら? 苦手だったら日本茶もあるわ」
「いえ……、大丈夫です」

 総士の答えに「そう」とだけ千鶴は言い、金色に縁取られた白磁のカップの横へ、ちいさな皿を添えてくれた。手作りらしいクッキーが乗せられている。「すぐ夕飯の時間になるからそれだけね」と、そう言って、千鶴も総士の向かいに腰を下ろした。
 そういえば、この島へ来て、出される食事に何か細工がしてあるんじゃないか、なんてこと、一度も考えずに、口にしているのだ、自分は。あの艦で最初に食事をしたときから、ずっと。マリスみたいに、このひとたちだって、総士のことを操ったり、騙したり、しているかもしれないのに。
 ――どうして疑わないんだろう、僕は。
 何故なのかわからないまま、いただきます、と、ちいさく言って、クッキーを口に放り込む。さくさくと音をたてながら、バターと砂糖のやさしいあまさがひろがって、総士は、おいしい、と、自然に言葉をこぼしていた。