3 人間
風呂から上がると、美羽が相変わらず、くまのぬいぐるみを抱きかかえてソファに座っていた。真矢は真壁家に行って、まだ帰ってきていないらしい。
夕飯のときに少し元気になったように見えたのだが、やはり空元気だったのだろうか。千鶴のことなのか、それだけではないのか――総士はひとつ、気にかかっていることがあった。
「……きみ、敵を倒すのが嫌なのか?」
総士の言葉に美羽はぱっと顔を上げた後、ぎゅっとくちびるを引き結んでから、そっと口を開いた。
「みんながみんな、戦いたくて攻撃してくるわけじゃない。美羽はお話ができるから、やめてってお願いして、止まってくれることもあるの。だけど……、それが、通じないこともあって……」
「お願いなのか? 怒ればいいだろう。攻撃するな、やめろって」
「だって……」
口を開いて、閉じて、美羽はそのまま黙ってしまった。
美羽は強い。世界最高のエスペラント。フェストゥムやミールとさえ対話のできる存在。総士が必死に戦っているときに、美羽は片手をかざすだけで、ギガンテス型を同化してしまうのだ。けれど、彼女は総士のように、積極的に戦わない。戦うことが苦しそうですらある。
――そんなことしなくても、総士がつらいこと、美羽、
思い出されるのは、すこし前の夜のことだ。
美羽は争わない。怒らない。ぶつかろうとしない。総士にだいじなものを投げ捨てられても、怒らなかった。部屋にこもってずっと泣いていたくらい、つらかったくせに。
操に「きみを食べさせて」と言われたときだってそうだ。あたりまえのように、美羽はその身を差し出そうとした。しかも、片腕だけならと条件をつけた理由は、自分のためではない。ファフナーに乗れなくなるから――つまり、島を守れなくなるから、だった。
美羽のそれは、一見、優しさに見える。美羽自身も、そう思っているかもしれない。
けれどちがう。総士を苛立たせるのは、美羽のそれが、相手や美羽自身を真に理解し、互いにちがう個人として向き合おうという態度に見えないからだ。優しくゆるしているようで、その実、「わかっている」気になって、相手が美羽の言動をどう受け止めるのか本当には見つめていない。
それを、誰かに咎められたことなんてないのだ。なぜなら彼女は、この島の求める強大な力と対話できる唯一の存在であり、なにもかもゆるして、「大丈夫」「平気だよ」とすべて
だから彼女は怒らない。――怒れない。
怒らせてくれる相手など、どこにもいなかったから。
「怒らないと、伝わらないこともあるだろ」
「――わかってるよ」
わかってる、と言いながら、できない、とも思っている声だった。怒ったほうが、美羽の望むとおり、無駄に戦わなくてすむこともある。それでもできないと言うのだから、本当に頑固者だ。
戦いたくないくせに、みんなを守らなきゃいけないから、とファフナーに乗る。いのちを賭しても、アルタイルと対話しなければいけないと覚悟を決めている。美羽のせいではないのに、かつての戦闘を、そこで失われたひとびとのことを、美羽のせいだと思い込む。
そう決まっているから。美羽しかできないから。美羽が、美羽が、美羽が――。
それを誰が決めたというのだろう。「やらなきゃいけない」という言葉には美羽の、美羽自身の意思はないではないか。「みんな」を守るために、「みんな」が望むから、美羽の言葉はいつだって美羽以外が中心だ。全体でひとつであり、個というものを持たないフェストゥムに、それは限りなく近い。
そのまま伝えれば、美羽が不満そうに「総士、自分がどうやって生まれたか知ってる?」と返して来た。暗に、総士だって
けれど、どうやって生まれたか、なんて、今の総士には関係ない。
いわゆるただの人間ではないことはわかっている。人に近しく、フェストゥムにも近しい――エレメント。そうルヴィは言った。そしてここには、かつて、総士と同じ名前と姿をもった人間がいた。マークニヒトのなかに遺されていた声。総士が生まれてくることを
自分は父も母も持たない。おそらく人工子宮で生まれたのでもない。幼いころの明確な記憶もない。それは拠りどころのなさでもあり、一方で、何にでもなれる――どこへでも帰ることができる、それを選ぶことができるということだった。それは強さだ。誰にもない、美羽にもマリスにもない、総士だけの強さだ。
「僕はすべてを自分の意思でつかみとる!」
人間だとかフェストゥムだとか、エレメントだとかエスペラントだとか、そういうカテゴリーは、本当はどうだっていい。総士は総士という個でありたい。なにものにも屈さず、従わず、属せず、自分というものを
拗ねた美羽に言い返して、まぁでも、総士に怒る元気があるくらいなら良かったと思いながらコップの中身を呷ったところで、――サイレンが鳴った。
◇
画面の向こうに、マリスがいる。
ファフナーパイロットや戦闘部隊、エスペラントたちが揃ってひとりの使者を迎えた。そのようすは全島民に中継されている。美羽と総士は、慌てて帰って来た真矢に連れられてアルヴィスまでは来たが、戦闘ではないから出撃はしなくてよいと、待機するよう言われ、ブリーフィングルームで数人の護衛と一緒に中継画面を見ることとなった。護衛がついたのは、以前のように、内部までマリスが侵入し、接触をはかってきた場合に備えるためだ。
――なぜ、今、このタイミングで、マリスが来るんだ?
圧倒的な真壁一騎の――マークアレスの力を前に、彼らは撤退せざるを得なかった。ほとんど間を置かずに、再度、真正面から攻撃をしかけるのは得策ではない。先の戦闘で個人を狙ってきたことからしても、彼らは総士や美羽、鍵となる存在を島ごと消してしまわないような戦法をとっている。グリムリーパーのSDPへの対策がすでに成されている今、ヴェル・シールドを破って密かに潜りこむことはできない。
だからといって、するはずもない降伏を求めて、交渉をしに来るのは何故だ――。
考えろ。考えるんだ。
本当なら、今すぐマークニヒトで飛び出して、マリスに戦いを求めたい。ちゃんと僕と向き合って、逃げずに戦えと――何のために総士を攫ったのか、偽りのすがたかたちをとった家族をつくったのか、きちんと説明させて、そして――総士の意思を封じ込めるように記憶を操ったことを、絶対に許さないと伝えて、その総士の怒りをわからせなければ気がすまない。
でも今は、その時じゃない。大きく呼吸して、怒りを抑える。
マリスに対して、ひとびとが投げかけるのは罵倒だ。人殺し、エスペラントの恥さらし、裏切り者――。それを隣にいる美羽が、ぎゅっと唇を噛んで聞いている。総士だって、聞いていて気持ちが良いと思えるものではない。大切なひとを奪われた憎しみは、こうやってはけ口を求めて暴れ出す。――お前だってそうだったじゃないかと、総士のなかで総士自身が言う。人殺し、と、ほかでもない、総士は真壁一騎に詰め寄った。ころしてやる、と。
あそこにいるひとびとは総士だ。総士と同じだ。
今は、わかる。それではだめだ。マリスの言うとおりにマリスを憎んで、憎しみでふるう手は、何も生まない。何も解決しない――。
「――復讐は我々の目的ではない!」
ざわめき、憤り、銃を向けるひとびとの熱気が、とたんに鎮まった。悲しみに暮れたひとりであるはずの彼が――史彦が、マリスに憎しみをぶつけるのではなく、島のひとびとを諫める。
「我々は決して憎しみを理由に戦ってはならんのだ。島の存在意義を、我々が守り続けたものを、自ら損なうことは許さん!」
マリスに向けられていた銃はおろされ、場がしんとなる。
――マリスが史彦を狙った理由が、わかったような気がした。
憎しみや怒りはコントロールすることがとてもむつかしい。どれだけ憎まないように、憎しみよりも遺されたものをだいじにしようと思っていても、いざ、
マリスは顔を顰めるが、総士は、なんとも言えない気持ちになった。
マリスがつくったあの島のほとんどは、竜宮島を模していた。美羽の記憶からつくったものが大半である以上、そうならざるを得ない。総士が見たことのないその島は、けれど、今こうして暮らしている海神島と同じように、平時であれば、フェストゥムもファフナーも、本当は夢なんじゃないかと思えるくらいに、平和で穏やかだったはずだ。アーカディアン・プロジェクト――美羽の記憶や、アクセスできる限りの記録で知った、人類の営みを、その肉体も含めて保存する計画。そのための島。
――つまり、マリスが憎んでいる島がなければ、マリスが総士たちと穏やかに暮らそうとした島も存在しなかったということなのだ。
マリスが生まれてから戦いに巻き込まれるまで、どんなふうに過ごしていたのかを総士は知らない。けれど、マリスにとって、総士や美羽と暮らすための――世界のすべてと関わりを持たず、自分たちだけが平和に暮らすための場所としてあの島をつくったということは、マリス自身が知っている「平和」が、この島のすがただったということだ。
滅ぼしたいと思いながら、その島の真似をする。自分の親は奪われたと言い、決して蘇らせたりしないくせに、美羽の両親を――故人をそっくりそのまま再現してしまう。
ともに暮らしていたとき、マリスのことを、賢くて、頼りになって、けれど兄のようにふるまうのがちょっと癪だと感じていた。しかし実際のマリスはこんなにもちぐはぐだ。狡猾なおとなのようにふるまっていると思えば、無知で聞き分けのないこどものようにも感じられる。
ルヴィの「あわれな人間」という言葉に、一瞬、気色ばむように見えたマリスはしかし、うまく感情を抑えこんだように――見えた。マリスがたとえマレスペロの配下であっても、裏切りものとすら呼べない――無力なたったひとりの人間でしかないと、ルヴィは言う。それはマリスを煽る言葉であるにも関わらず、総士にはなぜか、マリスを認める言葉のように聞こえてならない。
――人間らしくなった?
以前、総士を奪い返しにきたマリスは、ルヴィに対してそう言った。
人間らしさ。――総士はそれを個であることだと思った。人間らしいだろうと、美羽に言ったのはついさきほどだ。
ルヴィはマリスを人間として見ている。自分の意思で選び、決めて、生きる。対話ができる、
マリスの憎しみの根源を、総士は推測するしかできない。けれど、エスペラントとして敵と対話することを求められ、ファフナーに乗ることを決められ――つまり自分が犠牲になる未来が、さだめられていたとしたら、それを自分で選ぶのではなく、誰かに決められていたのだとしたら、美羽のようになんでも「大丈夫」と言い切ってしまうより、逃げるという選択をしたマリスは、確かに、自分の意思をもった、
だから、マリスの選択そのものを総士は否定しない。
零央や美三香、彗のように、総士がこの島で出会った人々を好ましく思う一方、誰もがそうは在れない、と総士は思う。この島の在り方が世界にとって大きく影響を与えるものであることも、そうでなければ人類は滅んでいたと理解できる一方で、正しい、とも思わない。生きるちからを与えてくれた千鶴に感謝し、憎まれるべきひとではないと思うことと、それは、相反せず総士のなかにある。
だから、マリスの選択を、感情を、総士は否定しない。総士が憤っているのは、総士という、マリスとは
それをわからないで、総士を奪い返し、ともに暮らそうと、自分たちを犠牲にする古い人類とは決別しようと言うマリスに、総士は従わない。
マリスとの交渉は――はじめから決まっていたように決裂し、ふたたび空には、赤い月が昇った。